イングランド人は紅茶好きですが、実はそれはコーヒーブームの後に来たというのはご存知?ロンドンの文化、ビジネスの中で17世紀のコーヒーハウスは非常に大きな役割を果たしたと考えられています。18世紀にはロンドンだけで500/600のコーヒーハウスがあったと考えられています。しかし、それはやがて紅茶に取って代わられます。アメリカが独立後コーヒーを飲むようになりましたが、それにはこんな先立つ歴史があったのですね。
ロンドンではコーヒーハウスはコーヒーを飲む場というよりは、ビジネスで人と会い、情報交換するための場所だったようです。船が一番速い通信運送手段だった時代が長く続き、その後それは電信に取って代わられます。このため、誰それの船がどこそこの港に着いたようだ、主な積み荷はオランダからのジン(酒)だ、という具合。なんとかという船はまだ入港しないのか?途中で沈んだのか?保険金は払われるのか?というようなごく普通の、貿易関係の事柄が、物流、市場価格、金融、損害保険、などの業者の利害と直結していました。そんなロンドンで最初の日刊新聞が発行されたのは、1702年で、名前はThe Daily Courantでした。1ページもので、貼り出ししたり、手に持って読むものでした。
これは世界最初の日刊紙ではなく、その栄誉はライプツィヒで発行されたEinkommende Zeitungen という新聞に向けられるべきもの。これは現代でも存続しております。Einkommende は英語では incomingに当たる言葉のようです。後の言葉 Zeitungen は「日刊紙」ですが、これすら造語でしょうね。これの第1号はJuly 1, 1650の日付で、実物が現存しているそうです。ライプツィヒは古くから交通の要衝で、商都です。東西ドイツの時代には「東」に当たる場所にありました。JSバッハが長く住んだ町でもあります。
これより古い新聞は、日刊でなくてもあったのでしょうか。実はありました。それは古代ローマの時代です。名前はActa (Acta Diurnaとも)と言います。英語で、議会が発行する布告などをactと言いますが、その語源はラテン語のこれactaです。diurnaというのもdayに近いのだろうと想像できますが、実際にその通りです。つまり、「日々のお知らせ」のような意味です。これの現物はまったく残っていませんが、元老院議員、高級貴族、軍人、演説家が言及し、その存在が推測されるだけですが、Acta Diurnaが存在したことは間違いないでしょう。パピルスに、という説がありますが、おそらくは白木の板にラテン文字で書かれて、フォロ・ロマーノの元老院近くで掲示されたのでしょう。
当時字を読めるのは貴族だけでしたので、庶民が対象になっていたわけではありませんが、Julius Caesarはこれを非常によく利用して、庶民を味方に付けた、付けようと世論をリードしたことが色々な資料から推測されます。最初の発刊は59BCEとされていますが、これより数十年古いという説も存在します。つまりカエサルの時代よりずっと前からあった、ということをその節は主張しています。 カエサルはガリアで討伐を続ける間にゲルマン人捕虜を奴隷にして売りさばき、その代金を自分の懐に入れました。彼個人は当時世界最高の金持ちだったと考えられています。こういう行為があると、カエサルも、「なーんだ、今の中東の王家と称する奴らとたいして変わらんじゃないか」とお思いでしょうが、仕方ありません。ただ彼はあぶく銭を惜しみなくばらまきました。カエサルは元老院議員の奥方に次々に手を出しましたが、誰ともトラブルにならずに処理しました。金離れが良かったので。年齢56歳の年に彼は暗殺されました。当時このような年齢の人は稀で、長命の家系だったのでしょうね。
当時、奴隷は高価でした。カエサルはその豊富な資金を政治につぎ込みました。元老院の定員を一気に倍にしたことがありますが、目的は、元老院を自分の思い通りに操作することでした。ということは、カエサルの行動を日々ウォッチする新聞が必要だと考えた人もいたはずですが、証拠となるようなものは残っていないようです。
カエサルは3月15日に、つまり当時のローマの暦では1年の最初の月の満月の日、おそらく宵の頃に暗殺されました。事の重大性から見て、おそらくActa Diurmaに第一報が掲載されたのではないでしょうか。ChatGPTに意見を求めましたが、彼も、事の重大性から掲載されただろうが、証拠となるものは残っていない、とコメントしています。
ロンドンではコーヒーハウスはコーヒーを飲む場というよりは、ビジネスで人と会い、情報交換するための場所だったようです。船が一番速い通信運送手段だった時代が長く続き、その後それは電信に取って代わられます。このため、誰それの船がどこそこの港に着いたようだ、主な積み荷はオランダからのジン(酒)だ、という具合。なんとかという船はまだ入港しないのか?途中で沈んだのか?保険金は払われるのか?というようなごく普通の、貿易関係の事柄が、物流、市場価格、金融、損害保険、などの業者の利害と直結していました。そんなロンドンで最初の日刊新聞が発行されたのは、1702年で、名前はThe Daily Courantでした。1ページもので、貼り出ししたり、手に持って読むものでした。
これは世界最初の日刊紙ではなく、その栄誉はライプツィヒで発行されたEinkommende Zeitungen という新聞に向けられるべきもの。これは現代でも存続しております。Einkommende は英語では incomingに当たる言葉のようです。後の言葉 Zeitungen は「日刊紙」ですが、これすら造語でしょうね。これの第1号はJuly 1, 1650の日付で、実物が現存しているそうです。ライプツィヒは古くから交通の要衝で、商都です。東西ドイツの時代には「東」に当たる場所にありました。JSバッハが長く住んだ町でもあります。
これより古い新聞は、日刊でなくてもあったのでしょうか。実はありました。それは古代ローマの時代です。名前はActa (Acta Diurnaとも)と言います。英語で、議会が発行する布告などをactと言いますが、その語源はラテン語のこれactaです。diurnaというのもdayに近いのだろうと想像できますが、実際にその通りです。つまり、「日々のお知らせ」のような意味です。これの現物はまったく残っていませんが、元老院議員、高級貴族、軍人、演説家が言及し、その存在が推測されるだけですが、Acta Diurnaが存在したことは間違いないでしょう。パピルスに、という説がありますが、おそらくは白木の板にラテン文字で書かれて、フォロ・ロマーノの元老院近くで掲示されたのでしょう。
当時字を読めるのは貴族だけでしたので、庶民が対象になっていたわけではありませんが、Julius Caesarはこれを非常によく利用して、庶民を味方に付けた、付けようと世論をリードしたことが色々な資料から推測されます。最初の発刊は59BCEとされていますが、これより数十年古いという説も存在します。つまりカエサルの時代よりずっと前からあった、ということをその節は主張しています。 カエサルはガリアで討伐を続ける間にゲルマン人捕虜を奴隷にして売りさばき、その代金を自分の懐に入れました。彼個人は当時世界最高の金持ちだったと考えられています。こういう行為があると、カエサルも、「なーんだ、今の中東の王家と称する奴らとたいして変わらんじゃないか」とお思いでしょうが、仕方ありません。ただ彼はあぶく銭を惜しみなくばらまきました。カエサルは元老院議員の奥方に次々に手を出しましたが、誰ともトラブルにならずに処理しました。金離れが良かったので。年齢56歳の年に彼は暗殺されました。当時このような年齢の人は稀で、長命の家系だったのでしょうね。
当時、奴隷は高価でした。カエサルはその豊富な資金を政治につぎ込みました。元老院の定員を一気に倍にしたことがありますが、目的は、元老院を自分の思い通りに操作することでした。ということは、カエサルの行動を日々ウォッチする新聞が必要だと考えた人もいたはずですが、証拠となるようなものは残っていないようです。
カエサルは3月15日に、つまり当時のローマの暦では1年の最初の月の満月の日、おそらく宵の頃に暗殺されました。事の重大性から見て、おそらくActa Diurmaに第一報が掲載されたのではないでしょうか。ChatGPTに意見を求めましたが、彼も、事の重大性から掲載されただろうが、証拠となるものは残っていない、とコメントしています。
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