字幕なしの英語聴き取り応援団

英語の映画などの発話部分だけを編集、抽出して、繰り返し聞くという学習方法をおすすめするブログです。留学などの費用、時間をかけずに、実用的な英語力を涵養することができます。3か月以内に結果を出しましょう。既に210本以上の映画を紹介済み。

2024年06月

今の日本の産業は先進国の中で遅れているか?と聞かれれば、私の答えはYESです。「先進国」とは普通はある程度の大国であるべきだと考える人が多そうですが、「国のサイズは別にして」という条件を付けると、先進国の数が20から30位になりそうです。でもその中には、私の意見では、日本はいませんね。アメリカは見事にカムバックしましたね。別の言い方をすると、古い産業を放置して、新しい産業(主にIT, AI)が育ったからです。政府の施策がよかったからではありません。昔からアメリカ人はコンピューターを使った技術には、当然ハードウェアもソフトウェアも両方含めての話ですが、非常に明るかったです。ナチスドイツが効果的にユダヤ人を抽出できたのは、IBMが当時は強力な武器であったパンチカードシステムをナチスドイツに納品し続けていたからです。このパンチカードシステムは戦後の、ディジタル計算機に継承されました。

戦後しばらくの間は、コンピューターを動かす人は専門家で、専門家がmachine languageと呼ばれるアルファベットと16進数を使ったプログラムを書く必要がありました。人間が使う言語とは無縁のcodeでできています。入力装置、記憶装置、制御装置、演算装置、出力装置の5つのユニットからできています。これを考えついたのは、フォン・ノイマンというユダヤ系のアメリカ人天才数学者です。今でも同じ基本構造です。その後、IBMはmachine languageを知らなくてもプログラムを作れる、人間の言語に近い専用のプログラム言語を2つ開発しました。一つはCOBOL、もうひとつはFORTRANと名付けられました。FORTRANとはformula translationの短縮形です。これにより、専門度はかなり下がりました。COBOLに至っては、ほぼ日常言語で書かれていますが、会計計算専用です。つまり経理畑のアメリカ人がたいした訓練を受けずに使えるものでした。ただし、これは英語ができる人にとっての話。今でも広く使われています。ロケットの打ち上げなどに貢献するのはFORTRANの方でした。

私は大学でFORTRANを勉強しました。当時は紙のパンチカードにプログラムの1行だけ書きました。たしか教科書の最初の課題は、2.0 x 3.0の結果を印刷させよ、というものだったかと。こんな問題でも数行分のパンチカードが必要でした。大きなプログラムになると段ボールひと箱分にもなったそうです。嘘かほんとかは知りませんが、計算室まで箱に入れて運んでいる途中で学生が転んでパンチカードの順番がめちゃくちゃになったので、正しく並べ替えるのに丸1日かかったようなこともあったようです。

最初はコンピューターが原始的でしたので、ちゃんと動く1つプログラムの陰には、数個から数十個の没プログラムがあったような印象です。コンピューターは極めて厳格でしたので正しくないプログラムだと途中で暴走します。専門家がスイッチを切って、再起動させます。これだけで数分かかりました。頭の悪い学生が持ち込むバグだらけのプログラムをロードさせる度に暴走、再起動の繰り返しです。私は再起動係には絶対ならないぞ、と誓いました。心の平安を失いますので。(ちなみに、高校の数学を思い出すと2と2.0は違いますよね。コンピューターは整数を扱うのは苦手です。実数を好みます。というか授業では絶対に整数表示できない実数の例も教わりました。忘れましたが・・・)

そんなボンクラ学生の私にとって、生涯忘れることのなさそうなこと、それはflowchartというもの。日本語で「流れ図」なるもの。「流れない」の意味の「流れず」ではありません。FORTRANのすごいところは、流れ図をちゃんと描ければ、9割方プログラムは書けたようなものです。(たぶんCOBOLでも同様。)残りの1割のエネルギーでパンチカード入力をすればよろしい。大体プログラムの失敗はflowchartの不備です。不備はないはず、と3回チェックしても実際にコンピューターにカードを読み込ませると、暴走、再起動・・・。どこかに誤りがあった証拠といえました。すべての理工系の学生がコンピューター言語を学んだわけではありません。化学系、農学系の学生には選択しない人もたくさんいました。

明日に続きます。

今週行われた新潟での陸上競技選手権で、新しいスターが生まれました。女子100mの三好美羽(みわ)氏。中3ですが、準決勝まで進んで敗退。もうフックラ体型で、フォームはめちゃくちゃですが、なんと中盤ではトップ3辺りの位置でした。あのフォームではトップスピードに乗ってからさらに加速するのは無理でしょう。それでも走者8人中7位。たいしたもんです。ほぼ親からもらった才能だけで準決勝まで進む中学生。これからが楽しみです。

さて、『文明の衝突』は、Samuel Huntington 1927--2008の書いた有名な本です。(できれば「ハンチントン」という発音からは卒業したい・・・)もしまだであれば是非読むことをおすすめします。冷戦後の世界を予言した本で、ひとことで言えば、西洋文明はイスラム文明と衝突するだろうという話です。それ以外は傍流に過ぎない。例えば、今のウクライナでの戦争は傍流に分類する見方。ある女性のあまり有名ではないAS系宗教学者が書いた本がありますが、私は彼女の英語版の本を読みましたが後にイスラムを理解するには全く無駄だったと気づきました。それはイスラム文明を宗教的な観点からだけ見て、皮相的な話を延々としていました。つまり、イスラム教、イスラム文明を少しでも知ることは、それが持つ文化的側面にも注目することである必要があります。その著者はイスラムを西洋的なコンテクストにおいて理解しようとしてきたと私は判断します。欧米人にありがちな、自己の文明、価値観、文化が前面に出ていて、客体を素直に見ることができない人でした。今日は、2個の、英語に入ったイスラム教由来の言葉を紹介します。あなたがムスリムを見る時の目に鋭さが備わると私は思います。そして議論をする時におそらく必要な言葉。

古代文明から順調に発展して、中国文明は近代以前の世界において他を圧倒する水準にありました。中近東世界は、古代においては優れた文明を持ち、7世紀にイスラム教が起こって以降は一大文明勢力となりました。イスラム教世界は、中世の初期においては、世界最先端の文明圏でしたが、ヨーロッパの中世の頃、特にルネサンス以降はただのローカルな文明になりました。こうして見ると、中国ーイスラム教圏ーキリスト教圏という風に文明の栄枯盛衰があることに気づきます。中国、イスラムはいずれもローカルなものに成り下がりました。というか世界の中心が、地中海に依存しない、西ヨーロッパに移動したのですね。20世紀からはアメリカを加える必要があるでしょうから、今の世界の中心は大西洋ともいえます。しかもキリスト教世界の中でもカトリック圏からプロテスタント圏への移動もあります。次の軸はどこに?おそらくアジアも重要な役割を果たすでしょうが、本質的に新しいものを加えることはなさそうに、私には見えます。比喩的に言えば、ギリシャ文明と後のローマ文明。本質的にはローマはギリシャ文明を継承しましたが、付け加えたものも偉大です。アジアにそのようなローマの役割を期待しうるかは未知数ですけど、難しいだろうと私は見ます。

さて、イスラム教で、最も目立つ傾向は taqlidという言葉(名詞)で表現されるもの。意味は「従順、無批判」です。昔から現代までの聖職者たちが残した考え、意見を批判することなく受け入れることです。これは実は現代のイスラム教徒に要求される態度でもあります。これの例では、フランス亡命から帰国したイランの宗教指導者アヤトラ・ホメイニが国民に言ったとされる言葉は "Death to America" ("Marg bar Amrika" (مرگ بر آمریکا) in Persian*)があります。これがペルシャの学生たちの蜂起、アメリカ大使館占拠(多数の大使館員を人質に)に直接つながりました。これは当時のムスリムたちの過激で空疎なデモの時の発言と同じでただのお題目のはずでした。イランにはデモの自由もありませんでした。今もありません。おそらくホメイニも驚いたことでしょうが、実際に歯車は動いて、アメリカ文明に反感を持っていた活動家たちはアメリカ大使館を数か月占拠しました。学生数の少なさそうなイランでは当時の学生はエリートだったはず。それでもその程度なのです。一体、Quoranのどこにそんなことが書かれているというのでしょうか。おそらく、多くのムスリムは「taqlidを実践するもの」と呼ばれることを好みます。このような人物をアラビア語でmuqallid と呼ぶようですが、このあたりになると英語の辞書には出てきません。taqlid、覚えておいて損のない言葉です。これを英語化してtaqlidityというような造語をしても全く通じないと思います。

これの反対語があります。ijtihad と言います。これはQuoran/Hadithの内容を、ムスリムが独自に解釈することを指します。しかしながら、これはイスラム教世界では早々に禁止されました。おそらく10世紀頃にはもう禁止されていたようです。これでは新しい解釈は生まれにくいですね。それは正しい教育を受けた聖職者だけが行うべき事柄だというのがその後のしきたりです。

ホメイニは現代的なコンテクストから考えて言えば、ただの頑迷な職業的聖職者でしょうね。バッサリ切り捨てるのは、私が言論の自由のある国に住んでいるから。イスラム教国ではそもそも論ですが、言論の自由、表現の自由はありませんね。そんなものは、社会の害毒である、一般大衆はお上の言うことに服従していればよろしい、と職業的聖職者たちは考えます。彼らにはtaqlidこそが好都合で、ijtihadは面倒です。

Republic of Turkey は Ottoman Empireの後継を自認する国です。自由選挙があって他のイスラム教国よりはましに見えますが、未だにEUには加盟していません。おそらく無理でしょうね。加盟するとトルコ経由で有象無象の人々がEUに入ってくるだけのことになりそうです。今でさえ、フランスで生まれたムスリムとの共存に手を焼いているフランス。他のイスラム教国よりはましですが、西洋文明が評価するようなレベルの自由、平等からはトルコはまだ相当距離があるように感じます。ですが、他のイスラム圏の国々がトルコを目標にしている、という話は聞いたことがありません。ちなみに、トルコ共和国ではtaqlid/ijitihadはどの程度重要視されているかという私の問いへのChatGPTの回答は以下の通り。回答になっていないので斜め読みで十分:

The importance of taqlid (following a legal precedent) and ijtihad (independent reasoning) can vary among Turkish people today, influenced by a range of factors including religious beliefs, educational background, and societal norms.

Religious Orientation: For devout Muslims in Turkey, particularly those who adhere closely to traditional interpretations of Islam, taqlid may hold significant importance. They might prefer to follow established schools of thought (madhabs) or religious authorities in matters of jurisprudence and religious practice.

Secularism and Modernity: Turkey has a secular constitution, and a significant portion of its population identifies as secular or non-religious. For these individuals, the concept of ijtihad (independent reasoning) might be more relevant, especially when considering legal or ethical issues that intersect with religious teachings but also require contemporary interpretations.

Educational Background: Individuals with a background in Islamic studies or jurisprudence may be more inclined to engage with ijtihad, as they are trained to critically analyze religious texts and apply principles to new situations. Conversely, those with less exposure to religious education might rely more on taqlid or deference to established authorities.

Legal and Social Context: In the legal and social spheres of Turkey, there is a blend of secular laws and religious influences. Issues such as family law, inheritance, and personal status can involve both secular legal frameworks and religious interpretations, influencing the relevance of taqlid and ijtihad in different contexts.

Overall, while the importance of taqlid and ijtihad varies among Turkish people, both concepts continue to play roles in shaping religious practice, personal beliefs, and legal interpretations within the diverse socio-religious landscape of modern Turkey.

トルコはイスラム系の「その他大勢」に属するわけではありませんが、明確なイスラム圏のリーダーでもありません。国は独自の立ち位置を持とうとしています。その努力が継続される間はこの種の議論がトルコでは活発でしょうね。ちなみに、トルコ共和国の憲法では妻帯は1人と明記されているそうですよ。ついでに妻が一人か複数かの英語はmonogamy polygamy ですが、ついでに polygyny polyandryも覚えておきましょう。taqlid, ijtihadには「正しい」発音はないはず。あなたの好きなように綴り字通りに発音すればよろしいでしょう。

最近私はPCを買い換えました。前のPC、かなり突然パフォーマンスが急速に悪化しました。新しいPCの設定を一個一個手作業で私はやります。マイクロソフトにすべてのファイルの中身を開陳することをしたくありませんので。例えば、ブラウザー。MS社の標準ブラウザーはEdgeというのでしょう?数日使いましたが、広告があまりにも多いので、予定通りBraveに変更しました。あれほどの広告を可能ならしめるために、MSは一体どれほどの通信量を私に消費させようとしているのか。しかも私が男性か女性か、若いのか年寄りなのかがわからないので、網羅的な広告を羅列。反応を見て絞り込み?全部スルーしましたね。MS社は自然エネルギー由来の電力のみを消費しているそう。自分はそうかも。でも世界中でEdgeで見る不幸な人々が消費するエネルギーはそうではありません。要するにgreenwashですね。もしあなたがEdgeでこれを見ているのであれば、Braveに切り替えては?リスクについてはご自分で判断を。私は評価するほどの知見を蓄えていません。

さて、本日は私のオピニオンを紹介します。先日のアメリカの高校卒業率の統計は大方の読者の期待とは真逆の結果を示していたはず。一方、アメリカの有名大学の大半は私立であり、学部学生、院生の一部あるいは相当数は海外から来ます。とすれば、有名大学とは輸出産業ではないのか。結論を先に言えば、私はそう考えます。ですが、GDPの統計のdefinitionからは国内産業に入れることになります。

教育がある国の領域で消費され、対価が支払われているのである以上、それは国内産業に間違いありませんね。しかし、教育は単なる消費活動ではありません。普通の消費活動は消費すればなくなります。次の消費のためには、需要が再度同じ需要が発生するはず。ですが、教育では同じ消費者が再度同じ消費に参加することはありません。(唯一の例外が留年・・・)つまり、教育においては需要者は消費するために購買しているのではなく、その行為を通じて得られる無形の別の何か---知識、知見、discussionの仕方、debateの仕方、見方、価値観、哲学、交友関係を期待しているのです。それらをクラスにおいてどの程度達成していると教育者は評価したのかが成績表です。ということは、その、言わば、変換が行われる場所が海外であれば、それは輸出産業global industryであると言うべきではないのか。

大学教育には国際市場があり、それぞれの国内市場とは別個の市場を形成していると想像しましょう。どの大学でも参加できるわけではありません。日本からは、東京大学、京都大学など数大学。アメリカだと20か30はありそうです。この市場で各大学は競争し、顧客を奪い合っているし、顧客に新しい提案をします。それが次のinnovationを生む。どうみても、これは国内市場とは別物です。とすれば、上記の国内産業、国際産業の区別は意味がないことになります。

従って、アメリカの教育産業はなぜ強いのか?は間違えた設問。正しくは、「アメリカの一流大学はなぜ強いのか?」答えは、海外市場で揉まれてきたから。ではそれはいつ頃からなのか。私の答えは、たぶん「フルブライト奨学金」の頃から、です。英語でフルブライト奨学金を得た人々をFulbrightersと言います。アメリカ人の大学教授でもFulbrightersはたくさんいますが、おそらくあなたが日本人のFulbrightersを見たら納得するでしょう:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0

また鹿児島県警が切腹級の不祥事をやらかしたようですね。加えて、メディアに捜索に?これってもしかしたらその不祥事の事を報道したメディアにってこと?まるで大日本帝国憲法を地でゆくような世界・・・これって21世紀の話なのか?捜索令状を出す裁判所も同罪ですね。高校生でも判断できる事案でしょう。ここまで露骨なものは東京あたりではみないような気がしますがしょせん警察行政は大同小異。つばさの党の幹部が拘留されたままですが、あるメディアによると、警視庁の公務員が彼らを都知事選の間に外に出さないようにしているのだ、とメディアに述べたのだそう。まあ、時間を使う案件でもないので、しれーっと言う方は何様?書く方も異議を唱えず?私の感覚でいうと、西日本では公務員の立場、考え方は東日本とは相当違う印象ですね。しかも、鹿児島県警で有名な汚点は「志布志事件」です。若い人は知らないでしょうが、下記のwiki、一読の価値がありますよ。鹿児島県警は捜査をするだけではなく、証拠を作り、供述を誘導することもいとわないようです。容疑者の拘留期限が長すぎることが諸悪の根源。許可を出す裁判所も同罪。これを是正せずに日本に21世紀は来ませんね。
志布志事件

さて、この根源はなにか。私の意見では、それは鹿児島県人が憧れる栄達というものと県民性。関ヶ原で天下をとったはずの徳川はいくつかの藩におもねるような決定をします。そのひとつが、昔から九州南部の雄藩であった島津の所領を放置したこと。日本史に疎い私はにそれはそれ以上波風を立てるよりも少しでも早く戦国時代を終わらせたいという考え故のことに見えます。そのためにこの江戸から遠く離れたこの藩では独特の文化を育んだのでしょう。他の藩では侍階級の人口は1割程度ですが、島津藩では3割です。この意味のない負担を農民などは担い続けて明治になりました。このため庶民には明治になり中央で仕官することが重要になりました。鹿児島ラサール、東大、上級公務員あるいは軍人ですが、実は意外と官庁では鹿児島県人の存在感は薄いと私は思います。生麦事件の賠償金は徳川からの借金でしたが、結局島津は一銭も返さずに徳川は瓦解。その一方では、島津は今度はイングランドと仲良くなります。主義主張の極端な振れ、道徳心の薄さ、利己主義。鹿児島県人の特徴です。そもそもの島津氏そのものが鹿児島を捨てて京都に。揺れは今度は西南戦争に傾きます。熊本城を巡る激戦?熊本城に戦略的にどれほどの重要性があったのでしょうか。近代戦ではロジスティクスが重要です、というかロジスティクスは元々軍事用語です。熊本から先どのようにしてロジスティクスを維持して東京まで?旧長州藩で士族が合流?その後ロジスティクスは?ほとんど関ヶ原時代の戦争感があるのみ。ちなみに参勤交代の時の島津一行のルートは薩摩と肥後を結ぶ街道を北上して、熊本を経由して今度は博多へ。博多から回路で瀬戸内を通って大阪へ。薩摩藩の誰も山陽道をしらなかったはず。おそらく海路で大阪へ、というつもりだったのでしょうが、大砲、弾薬、1、2万の兵を運ぶと傭船はどうするのでしょう。まだ損害保険のない時代に反乱軍の輸送を引き受ける船主はいたのでしょうか。

東京の上野公園の外れにある西郷隆盛の像。いったいどこの国に、中央政府にクーデターを実行したものの銅像を展示するものがあるか。Washington, DCの広場に Confederacy の重鎮の銅像を建てるようなものです。(南部諸州にはあるそうですが・・・)軍服の西郷像は鹿児島市城山にはありますね。せめてもの救いは西郷が浴衣を着て犬を散歩させているところ。こんなリラックスした「偉人」の銅像は世界中でこれだけでしょう。これ以外では許可は出なかったということでしょうか。これは鹿児島県人の文化とはあまり縁はないのかも知れませんが、これ(像建立)をごり押しするということが既に極めてローカルです。

冒頭で書いた鹿児島県警の一連の失態は、私の卑見では、県民性と密接に結びついていますね。だから、高級警察官僚の間に弛緩がずっとあるのだと思います。さて、あなたもこんな目で鹿児島県警のこれからのゴシップと付き合うと色々と見えてくると思いますよ。鹿児島県人の皆様、私の偏見をお許しください。九州の人々はかなりローカル色の強い文化を今でも抱えていますね。だいぶ変わりましたが根っこには男尊女卑がありますね。すべて老人の戯言(たわごと)・・・

本日はアメリカの教育を話題にします。アメリカの教育は外国人には解りづらいです。教育産業に携わる外国人には十分、判りやすいのかも知れません。ですが、私のような門外漢にはかなり判りづらいです。アメリカの教育の大きな特徴を挙げると、(1)高等教育(大学or higher)では世界的に非常に競争力があること、特に私立系で。(2)高校レベルになると少し、水準がかなり低いこと---この2つが特徴だと私は思います。

(1)アメリカの大学というと、ざっくり2つに分かれます。ひとつは、主にNew England地方にある有名私立大学。Harvardが特に有名です。それ以外に、例えば、シカゴ大学というとかつては、ノーベル賞経済で受賞者を多く輩出してた経済学部が特に有名です。他にはノースウェスタン大学はどうでしょう?Philip Kotlerという、マーケティングの第1人者がいます。これら二つとも実は私立大学です。イリノイ州の公立大学だとIllinois Stateになりますが、これも州立の割には極めて優秀な卒業生を送り出します。ですが、多くの州では州立大学は地元の、2流の学生を対象にしています。つまり州のアメリカ人のための大学なのですね。

アメリカの多くの産業でこのようなことが見られるわけではありません。ですが、ずっと20世紀初頭からアメリカはヨーロッパの知識人と労働者を移民として受け付けてきました。加えて、20世紀初頭からアメリカなどの新興勢力は反帝国主義の立場をとりました。この過程でglobal politicsにアカデミーが積極的に関与してきました。これは旧世界の帝国主義ドクトリンを支えたであろう古いアカデミーと対立するのは必然でした。加えて、アメリカはmarket economyという新しい経済のスタイルをとりましたので、理論武装をするために経済学が発達しました。(一方のソ連はマルクス経済学には何の貢献もしていないことと対照的ですね。)そして、自動車産業、航空産業、軍需産業のような新時代の産業が生まれそれに資するための理工系の頭脳も求められました。つまり、優秀な研究者がアメリカでは特に必要とされてきた、ということがあります。この中でユダヤ系の人々が果たした役割はものすごく大きいと思います。20世紀中頃のシオニズム運動においてある考えが世界中で台頭しました。それは約束の地 the Land of PromissはCannanにあるのではなく、アメリカにある、というもの。アメリカでオリンピックの金メダルを持つことはさほど注目されません。あまりにも多いので、国民は興味を持ち続けることはありません。しかし、ノーベル賞に関してはなぜか一生そのステータスがついて回ります。もしかするとこれはユダヤ系の人々の団結なのかも知れないと私は想像します。ユダヤ系の社会では誰が仲間なのかが非常によく知られています。ノーベル賞選考委員会は受賞者に候補者を推薦せよ、とうながしています。当然赤の他人よりは、ユダヤ系を推薦することになりますね。

(2)高卒率
その割に馬鹿なのが高校生です。ちょっと鮮明度が低くて申し訳ないのですが、下記の図は、最近のアメリカの州別の高卒者のパーセンhischoolテージを表します。色の一番濃い州が、90%以上の卒業率を示しています。テクサス、アラバマ、テネシーがそれに該当します。これに対して、アジア系の多いカリフォルニアなどのUSWCの諸州では一番濃い緑はありませんね。アジア系はどの民族もみな学業意欲がアメリカ人より高いので、達成度(成績)も卒業率もより高い、というのは過去の通り相場でした。それにしてもアメリカ人高校生の80%以上が卒業するとは、私には信じられませんね。昔は5,6割が平均的な数字だと言われていました。私は検証したことがありませんけど。

ただこのままではアメリカは教育格差のためにアジア系、西ヨーロッパの国々との競争に負ける、という危機感のもとで、NCLB(No Children Left Behind)運動が行われてきたため、高卒率を上げようと、中央政府が各州に要請しています。ここでいう卒業率とは、9th gradeで入学して12th gradeを終えるまでの4年間で見ているとのことです。とはいえ、そんな程度のスローガンで9割を超える?holy smoke!一言で言えば、これには何かのgimmickが裏にあるはず。私にはわかりません。

アメリカでは高校生になると子供は大人の仲間入りとされて、多くはポンコツ車を親からプレゼントされます。これでもうやりたい放題ですね。こんなlaxな雰囲気の中で勉強するのは、一握りの上昇志向の強い生徒だけです。彼らは有名私立大学に進み、相当数はlaw schoolを経て、弁護士になります。あるいはMBAに。日本人から見てまともな高校生はこの一握りだけですね。

これを日本の高校卒と比べるとまるで違いますね。ただ、日本が優れている、ということではありません。アメリカには日本のような数学恐怖症、英語恐怖症の生徒はいないような気がします。数学が好き、嫌いはアメリカにもありますが、恐怖症は日本独特ですよね。

なお、上記のチャートは以下から:

https://nces.ed.gov/programs/coe/indicator/coi/high-school-graduation-rates

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