字幕なしの英語聴き取り応援団

英語の映画などの発話部分だけを編集、抽出して、繰り返し聞くという学習方法をおすすめするブログです。留学などの費用、時間をかけずに、実用的な英語力を涵養することができます。3か月以内に結果を出しましょう。既に210本以上の映画を紹介済み。

2024年05月

アングロサクソンは単位に関しては極めて保守的です。今でもインチ、ヤード、マイル、パイント、ガロン(一言で imperial unitsと言います)などを使っています。独立したはずのアメリカ人もイングランド人の真似をしています。まあ、少し困った風なのが、間にいるカナダ人ですね。Quebecという州を抱えているために、単位はフランス式にする必要があります。このためカナダ人はbiunitaryです。メートル法も使えるし、imperial unitsも使えます。(biunitaryは私の造った言葉です。そんな言葉が存在するかどうか知りません…)この単語に関して、久々にM-WのWord Of The Dayを聴きましょう。下記のサイトにenbedされています:

https://www.merriam-webster.com/dictionary/cubit

自分のcubitの長さを測ったところ、どうもこの説明より長いようです。私は日本人にしては相当身長が高い方なのでそうなのかも知れません。私は現代の欧米の至るところでラテンの残り香があることを頻繁に言っていますが、ここには何と、古代エジプトの名残があるのですね。

一方で、Britannicaの解説も短いので読んでみてください:
https://www.britannica.com/science/cubit

身体の一部で長さを、ということであれば東アジアも似たことをやっていますが、ここでは立ち入らないことに。というか、おそらくメートル法以前、世界中がそうだったはず。腕に、日本語でいう尺骨という、前腕の骨(小指側の骨)があるのは、杉田玄白が和語を考えだすときに、ulnaという言葉から考え付いたそうです:

https://www.etymonline.com/search?q=cubit

https://www.etymonline.com/search?q=ulna
ulna (n.)
inner bone of the forearm, 1540s, medical Latin, from Latin ulna "the elbow," also a measure of length, from PIE *el-ina-, extended form of root *el- "elbow, forearm." Related: Ulnar.

ラテン語では、どうも別々の単語が同じものを指した、ということなのでしょうか。それともetymonlineの誤りなのでしょうか。少しだけ気になります…

私は若者にとって耳鳴りは非常に重要な事柄だと思うので本日のpostで取り上げます。2つのサイトを話題にします。

(1) 一つ目は、アメリカの npr という、公共放送網のウェブサイトでのpostです。ここではこの話題がコebudsンパクトに取り上げられています。直接、この話題にアクセスできないようなので、いったんportalに入り、そこから、この画像の、短い post へ移動してください。ここでは、約1分のaudio fileがあります。非常に平易であり、コンパクトなのでぜひ全体を聴いてください:

https://www.npr.org/
 ↓
What are your earbuds doing to you?

なお、このpostは早々に次のものに取って代わられるはずなので、早めが望ましいと思います。earbudsとは、耳から出ている「うどんの切れっ端」という、マツコ氏のいうあれのことです。

(2) ほぼ同時に、アップル社の英文のサイトの中に、耳鳴りに関するpostが登場しました。そのニュースは上記の中で登場する Rick Neitzel, University of Michigan によりなされたものを報道するもの: 

Apple Hearing Study shares preliminary insights on tinnitus Researchers from the University of Michigan release data from one of the largest surveys on tinnitus to date

(3) コメント
(a)私は専門家ではありませんが、この警告は何度もこのブログでしております。新しい事柄ではありません。とはいえ、やはり専門家が指摘している事柄ですので、あなたも傾聴すべきです。

(b)tinnitusはおそらく「耳鳴り」、「難聴」の方は hearing loss というはずです。普通、tinnitus という言葉のアクセントの位置ですが、これは、英語のルールで、double consonant、この場合は、n-n ですが、この場合には、その直前の音節にアクセントが置かれる、というのがありますので、tin-にアクセントが来ます。ただし、この語はラテン語なのでそうではない場合もあり得ます。実際にこの語のBEでの発音には第2音節に置き、-i-をdiphthongで発音する、つまり/tináitəs/という人もいるようです。その理由をChatGPTに尋ねたところ、ラテン語(外来語)なので、とのことでした。つまり上記のdouble cosonantの…というのは、外国語には当てはめることができないようです。その類例で思い浮かぶのは、programmeです。この綴りはフランス語そのものですが、BEではそのままの綴りなのに対して、AEでは、ちょっと許せないようで、programとなりました。

ご参考に下記の和文のサイトもあります:
https://kompas.hosp.keio.ac.jp/contents/000558.html

先日私が高校生の頃使ったベストと思う、日本語で書かれた英文法の参考書を見つけました。たぶん最後に見たのは20年位前だったはず。これがベストだよね、と思いながらペラペラめくっているうちに、すぐ評価は変わりましたね。「えっ?こんな程度だったの?」高校生にとってはそれでよかったのでしょうが、老人になって読み返してみて、相当物足りなく感じましたね。出版社は培風館(ばいふうかん)で、今もあります。別に英語系に強い出版社ではありません…

さて、このブログは、学ぶべき外国語としての英語について、学習法について考える所です。それを越えたところにあるはずの、哲学的評論、政治学的考察などについて、書くところではありません。本日の標題は「悪の凡庸さ」です。これは少しだけ有名な言葉で、これを最初に言いだしたと考えられる人はハナ・アーレントHannah Arendt 1906-1975 です。彼女はユダヤ系の人で、彼女を世界的に有名にしたのは、アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴してアメリカの雑誌で発表された記事でしょう。別の言い方をすれば、彼女は学会のような知的世界においては知られていたでしょうが、一般大衆に知られたのはその記事とその後出版された本によります。Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil, 1963 が英語のタイトルです。彼女はドイツ語で書いたのでなく、英語で書きました。これを日本語で何というべきか。悩むところですが、後で。和訳は『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』です。

「悪の陳腐さ」あるいは「悪の凡庸さ」と和訳されたその言葉が表すのは、アイヒマンの主張の中で、彼は単に上層部から命令されたことを軍人として忠実に実行しただけで、責任は自分にはない、というものです。彼の主張はこの裁判において一貫しています。彼にはイスラエルでベストと思われるユダヤ人弁護士が国費でまかなわれましたのはこのブログで書いたことがあります。意外と凡庸な主張です。

さて、banality of evil という言葉、それ自体を分解することに意義があるかも。英文法で習いましたが、of+抽象名詞は形容詞の役割を果たします。(私の意見では、これはおそらくフランス語でのdeという前置詞の用法を英語に輸入したもの。)ですので、banality of evil というのは、単純にevilを形容詞と考えて、evil banalityと同じはずです。ですが、彼女はなぜそうせずに、banality of evilという言葉を選んだのでしょうか。いくつか考えられますが、先ずは、evil banality とすると主役は balality の方になります。おそらくそれは彼女の主張ではないはず。加えて、ofという言葉にはどこか外国風の響きがあります。重さがある、とも言えます。この格式のようなものをある程度目指すのであればbanality of evil を選ぶことになります。

さて、私の解釈では、banality of evil とは、考えないこと、感じないことです。そして、今の日本語で言う「ソンタク」を含む精神構造のことです。考えることを止めて、上層部に迎合するよう自分を仕向けることも含みます。これこそが、アイヒマンのような人間の行動を許したのだ、というのが彼女の見立てです。そんなことならばアイヒマンを例に引くまでもなく、今の世界中の会社で蔓延している悪弊です。イングランドでは次期政権は18歳男子徴兵制を導入する可能性があるようです。徴兵制かどうかは別にせよ、「西側」が徴兵制を検討するのは時代の流れでしょう。実際に兵卒となって戦場に我々が行く義務が生じた時、我々には上層部の非人道的な命令を拒否する自由があるのか。そもそも、我々はその時本当に、人間性を道徳の根幹に据えて思慮する勇気を持っているでしょうか。そして、今イスラエル軍がパレスチナで行っていることに対して、banality of evilはど評価されるべきなのでしょうか。これらは日本では長い間保留されてきましたが、考えるべき時ですが来たようです。

彼女の説に関しては以下のようなサイトがありますので興味のある方はいかが:
https://www.bu.edu/wcp/Papers/Cont/ContAssy.htm

先日「エジプト数学」のpostを読んでいたら出て来た言葉 quadrature、なんのことかわからず。英辞郎で調べたら、「求積法」なる訳語がありました。それにまつわるアレコレを話題にします。英辞郎をコピーすると:

1 方形にすること
2《数学》求積法
3《天文》矩(*)、矩象(**)
4《電気》直角位相   出典 英辞郎英和辞典
*読みは「く」です。
**weblio 「他のある図形と同じ面積の正方形を作ること」。おそらく読みは「くしょう」。(後述)

へぇ。でもこの中には quadra- の本来の意味を持っていそなものはありませんね。本当?私は数学の何かを読んでいたので、2を採用する気持ちですが、それにはまるで、数字の「4」を意味するものがありませんよね。信じるべきか?そちらの方が面白いので、エジプト数学は中止にしました。

今日我々が中学、高校で習う数学には人類の知恵が詰まっていると私は思います。記数法では、インド式が用いられますが、本来のインド式ではなくて、ヨーロッパで発展、改良されたものです。数字の形そのものも、アラビア人がヨーロッパ人に教えてものそのものではなくて、自分たちなりに改良しました。今度は逆にそれがアラビア人に広まり、インドでも教えられています。微分ではニュートンの書き方と、ライプニッツの書き方が混在して使われます。両方とも便利です。古代ギリシャで科学は急速に発展しましたが、古代ギリシャ人の考えでは、「数学」を発展させたのは古代エジプト人でした。その証拠があります。

パピルスにヒエログリフで刻まれた、一連の数学の問題があります。これは古代エジプトにおいて書記というエリート層の教育に使われたものだろうと推測されています。そのパピルスには名前があり、The Rhind Mathematical Papyrus と呼ばれています。Rhindは人名で普通は/ráind/と発音します。たしかスコットランド系の、古物商でした。これには補修の跡があるそうです。生徒たちが補修しながら使ったのでしょう。British Museumのサイトでそのパピルスを見ることができます:

https://www.britishmuseum.org/collection/object/Y_EA10058

ここにあるのは、要するに、古代には、円の面積を直接求めることは諦めて、代わりにそれと同等の正方形を幾何学的に見つけ出して、その正方形の面積によって、元の円の面積を求めたことにする、という手法が工夫されました。その手法によって、今日我々がπ(3.1415...)として知る無理数を、実用的な範囲において彼らは「(ほぼ)知っていた」と言って良いレベルにありました。その手法をギリシャ語でquadratureと呼び、それをローマ人はそのまま輸入して使いました。つまり、quadratureとは近似的手法によって(円の)面積を求めることを言う、というわけです。つまり、上記の「矩象」とはそのことを指す言葉のようですが、私には確認のしようがありません。

英語と日本語の間には膨大な数の学習者がいるはず。辞書の編集者の中には、ある程度物事を知って訳語を載せるタイプと、無責任に関係なく載せるタイプがいると私は思います。あるいは同じ人でも単語によりその二つを揺れ動くのかも知れません。私は英辞郎がそのどちらであるかを言おうとしているのではありません。我々辞書のユーザーは常にそのことを念頭に置いて訳語をあるいは意味を考える必要があることをこの例は示しております。しかもその境界は、ユーザーによって違う場所にあるのです。

こうやって、改めて上掲の訳語を見ると、どれも最低限正しいようみ見えますが、どれも役立たずのようにも見えます。唯一「矩象」は的確な用語のようですが、私の漢字の知識で確認可能なレベルより上にあります。

最後に種あかしのようなものを。ある翻訳サイトで以下の例文がありました:
The square root of four is two.
以下のラテン語binarius, quatermariiの意味が私にはわかりません。推測するだけです。ので、矢印の右側にあるように簡略化しました。
<Binarius est radix quadrata quaternarii.→Radix quadrata quattuor est duo.

英語とラテン語の対応する単語を同じインクの色にしてあります。quadrataとは「平方」を意味する言葉なのでしょうね。4の意味はなさそうです。このpostの最初で私が疑ったquadratureの訳語に「4」がない、というのはむしろ当然なのかも知れません。

このpostの最初で私が付けた難癖には意味がなかったということでしょう。そしてその例文では数詞4としてはquaternaiiが使われています。これは普通に知られている unus/duo/tres/quattuor/quinque/...というラテン語数詞とは違うので、→を使って、右側に我々の知るラテン語の数詞でラテン語を別のラテン語に勝手に翻訳しました。

最後に、Squaring the circle というフレーズが大抵の辞書に掲載されています。「円を正方形化する」という意味でしょうか。上記の事を言い表したものだろうと思います。wikiが図で解説してくれます。これはquadratureのことでしょうね。関心のある方は以下の図示されたものをご覧ください:
https://en.wikipedia.org/wiki/Squaring_the_circle

本日のpostは私にラテン語の知識が足りないためにあまり「切れ味」はよくないかも知れません。ご容赦を。

先日書いたことですが sabermetricsでのホームランのための打球角度は25/35°ということでした。ここでは初速は問わずに。ChatGPTにjavelin throwでのベストアングルを聞いたところ、30/36°だそうです。初速が相当違うし、空気抵抗も違うと思いますが、ベストの角度は意外とお互いに近いのですね。

さて、もしあなたがアメリカの葬式に列席したことがあれば、おそらく聞いたであろう、頻用されるフレーズがあります。Ashes to ashes, dust to dust です。でも実際には、そのフレーズは聖書にはないのだそうです。でも非常にわかりやすい表現ですよね。教養があってもなくても誰でも理解できます。それが由来したであろう一節が聖書にはあります:

By the sweat of your brow you will eat your food until you return to the ground, since from it you were taken; for dust you are and to dust you will return. (NIV)

In the sweat of thy face shalt thou eat bread, till thou return unto the ground; for out of it wast thou taken: for dust thou art, and unto dust shalt thou return. (KJV)

Gen 3:19  (<Genesis 3:19  NIV: new int'l version, KJV King James Version)
https://www.biblegateway.com/passage/?search=Genesis 3:19&version=NIV

私は英語でも日本語でも、文語体聖書の方がすきですね。ま、それはともかく・・・これは有名な一節ですので、宗教に関係なくご存知の方が多いでしょう。

で、葬式以外で dust が使われることはあるか、ですが、あります。ビジネスではよく使います。それは「ほとぼりが冷める」という意味です。after the dust settles/when the dust settles/let the dust settle などですが、意味は同じです。それ以外に get the dustは、「塵を食う」ところから、倒れること、ダウンするを意味します。西部劇でパンチでダウンしたときなどのイメージです。なので、負けること、倒産することを意味します。Queenという70年代のロックグループの歌にあるAnother one bites the dust というのも、同じような意味だと私は思います。「また誰かやられた」「また負けた」という意味でしょう。BEでも使うのでしょうか。ロック音楽は元々アメリカの黒人音楽に由来しますので、ロックの歌詞はAE訛りで歌うのがお決まりです。おそらく本来のBEではそのような言い方はないのでは、と私は思います。

dust ballという言葉が 映画"Grape of Wrath"で使われました。それは表土が失われて農業ができなくなり、オクラホマを捨てた農民の話ですね。でも、野球でこの言葉が使われる時は、単に duster と呼ばれます。名前だけきくと、打者を倒してdustまみれにさせるような球を想像しますが、実はそうではなくて、バッターをのけぞらせる球のことを言います。別の言い方では、brush ballともいいます。ここでのbrushはボールがユニフォームと擦れるくらいにギリギリのところに投げられるからでしょう。これに対するのは bean という球。bean ballとも書きます。beanとは「頭部」を指すslangですので、「頭部を狙って投げる球」のことです。アメリカでの一般的なしきたりでは、プロ野球では、dusterはOKだが、beanballはno good だと言うのです。まあ、アメリカの価値観がしばしば私には理解不可能なのですが、その一例ですね。日本のプロ野球で、大した球ではなくても結構な成績を残すピッチャーがいましたが、それは大抵dusterを投げてましたね。昔、数十年前、甲子園決勝で有名になった、三沢高校の太田幸雄というピッチャーがいましたが、彼はプロに入ってdusterを投げることができませんでしたので、早々にプロから脱落して行きました。dusterというのが性に合っていなかったのでしょう。

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