本日は英語とあまり関係のない、私の個人的観察のお話です。
第2次大戦末期のドイツの、或る大河で、西部戦線と東部戦線とが初めて出会いました。西部戦線とは、ノルマンディーから上陸した連合軍が、次々に東に移動しているときの、前線でした。東部戦線とは、ロシア軍が東から西へ移動しているときの前線でした。その川の名前はエルベ、Elbeです。我々にはあまりピンと来ませんが、この川を代表する都市、それはハンブルクです。中世のハンザ同盟の時代から栄えた港町です。でもハンブルクはエルベ川河口から約100km遡ったところにあります。今ハンブルクはヨーロッパ最大の港湾都市です。ですが、ハンブルク港に出入りするすべての船舶は、この川を遡って、ハンブルク港に入ります。こんなところにハンブルクがあるなんて少し意外な感じです。
それと似ているのがパリ。河口のルアーブル(Le Havre)からパリまで、水路ではわかりませんでしたが、道路で200km強あるそうですので、水路では250kmから300km位でしょうか。しかもローマ軍が陣地を築いたのがシテ島、今のパリの中心部です。ノートルダム大聖堂の立つあの島です。ローマ軍は、なぜそんなところに都を作ったのでしょうか?おそらく最大の理由は、海岸ではリスクが高いからではないでしょうか。海岸のメリットもありますが、セキュリティを考えると河口を少し遡ったところ、という選択が有利に見えてくるはず。江戸は海に面してましたが、その海は内海(湾)でしたので、ほぼ似ています。おそらくルアーブルからパリまでは、潮流を使ってあまり力を使わずに遡行できたはず。
ロンドンも似ています。ロンドンはテームズ川を約60km遡ったところにあります。昔ヴァイキングはロンドンを襲撃するときに、1日2回ある満ち潮を待って、満ち潮に乗って、漕ぐことなくロンドンに到達しました。
パリも何度かヴァイキングに襲撃されています。北海を越えて南下するヴァイキングにとっては川を300km遡行することはさほどの苦労ではなかったのでしょう。なお、研究者の比較では、ヴァイキングが活躍した時代に最も深刻な損害を受けた国は、フランスだったそうです。イングランドではなかったのですね。
なお、フランスに定住したヴァイキングの大将Rollo le marcheurが居城に選んだ場所は、Caenという小さな町で、ここは海につながっている小さな川がある町です。彼はルーアンには大聖堂を建てましたが、そこに定住したのではないのですね。
こうして見ると、多くの古代からの港が、実は海に面しているのではなく、河口に面しているのですね。例えば、York。ここは中世では、ロンドンに次ぐ、UK第2の都市でしたが、ここは内陸の都市、と言うよりは、2つの川で海につながれた都市です。(二つの川とはHumberとOuseです。)そのために、フランドルへの羊毛の輸出港として栄えたのですね。逆に言えば、もしこれらの川がなかったのなら、Yorkはイングランド北部を代表する大都市になることはあり得なかったと思います。
リヴァプールもアイリッシュ海に面している、というよりは、正確には、河口から数キロ川を遡行したところにあります。川の名はマージーMerseyです。
逆の例として、私が思い浮かぶ町は、Birmingham, UK (not Birmingham, Alabama)でしょうか。小さな川に面しているようですが、海にはつながっていませんね。それでも現代ではロンドンに次ぐ第2の都市です。
それに対して、アメリカの都市。例えば、ボストン。ほとんど海に面しています。NYCもそうです。LAも海に面しています。SFは湾の中の町。上記の都市との違いは、開発されたのが、近代から現代にかけてです。
とすると、江戸は、海に面していると考えるよりは、荒川の河口に立地した町、ということでしょうか。大阪は商業の町でしたので、川、および運河に面しているの当然なのでしょう。ということはおそらく長崎港もおそらく直接外洋に面しているというよりは湾に面しているということなのでしょう。なお、江戸は大都市であり、大消費地でした。その倉庫機能は日本橋地区の運河、倉庫が担っていたのですが、その多くのものは、銚子、利根川、野田経由、江戸川経由で江戸に運ばれました。伊能忠敬は利根川南岸の直轄地の出身で、当時の佐原村は、大型船から小型船への積み替えの中継地として大変繁栄していました。こうしてみると、江戸ですら、川を遡ったところに立地する町とも言えます。
なお、ロンドンは現代の船のサイズには不便な場所なので、たいていの場合はサザンプトン(Southampton)という港が現代では中心になっています。同様にパリの代わりにルアーブル(Le Havre)です。ハンブルクだけは現代の超大型コンテナ船でも航行可能なので非常ににぎわっております。