字幕なしの英語聴き取り応援団

英語の映画などの発話部分だけを編集、抽出して、繰り返し聞くという学習方法をおすすめするブログです。留学などの費用、時間をかけずに、実用的な英語力を涵養することができます。3か月以内に結果を出しましょう。既に210本以上の映画を紹介済み。

2019年11月

まず、簡単に、イベリア半島およびスペインの人と風土について書きます。

イベリア半島には、ケルト人がいたことは明らかだそうです。そこにローマ人の統治が持ち込まれます。イベリア半島でもその程度には濃淡があったようで、今のカタルーニャ地方は明らかにローマ帝国の属州でしたが、イベリア半島の中央から北部では統治とは呼べない状況だったようです。その後、4,5世紀頃、ゲルマン系の民族が侵入してきます。最も強力だったのが西ゴート王国です。8世紀にはイベリア半島の北部を除く大半がイスラム教徒の支配するところとなります。

一方で、ポルトガル地方ですが、ここはローマの属州であったときの名前はLusitaniaです。ローマ以前にルシタニ族という名前の部族が紀元前に住んでいたためにつけれらた名前だそうです。ですが、ポルトガルという国名の由来は、スエビ(スウェイ)族が築いた城塞Portus Cale(ラテン語)に由来します。ルシタニ族はケルト系ともゲルマン系とも推測されている人々ですが、ほとんど詳細はわかっていないようです。この地方で最初に国王らしきものとして登場するのは、Portucale国の伯爵であったAlfonsoで、彼が初代のポルトガル国王を名乗りました。在位1139-1185年です。

イベリア半島の地勢を見るとわかりますが、フランスのように平野でできているわけではありません。山がちの地形です。川はいくつかあります。最も重要なのは、タホでしょうか。トレドを流れて、ポルトガルのリスボンにまで西に流れいきます。トレド観光にいくと、かならず停まって、トレド市内を一望できる撮影するポイントに行きますが、これがタホ川沿いにあります。なお、トレドは西ゴート王国の首都でした。なお、この川はポルトガルに入っても同じつづりですが、発音が少し違います。他のヨーロッパのように道路があまり発達させることのできない地形です。今でもスペインの鉄道は、ヨーロッパと軌道幅が異なります。道路軽視のマインドと同じ軸にあると思います。

次に重要な川は、おそらくセビーリャという町のある川グアダルキビルGuadalquivirでしょうか。ここは標高7メートルにあり、約90KM流れて大西洋にそそぎ、その河口から少し東に行ったところにカディスCadizという港があります。

大航海時代の王朝は西インドとの交易をセビーリャ港に限定しました。色々な管理をするためには、同じ川沿いにあって大西洋に面するカディス港を使うよりは、やりやすいためです。ですが同時にいろいろな制約があり、国の発展を考えれば、賢明な選択とは言えません。これが、内陸のセビーリャが、貿易港として歴史に登場した理由です。この川はイベリア半島で内航が可能な唯一の河川と言われています。この川の名前は、ローマ人の付けた名前ではなく、アラビア語がベースになっていますので、あまりスペイン(カスティリャ)語っぽくありませんね。この川が外洋船舶の航行に使われただけで、スペインのほかの河川は、水上輸送に適していないと言われています。

このような地勢上の制約が大きいと、イベリア半島では民族、国家形成はどうなったのでしょうか。小国に分かれて、言葉、文化が異なるという発展を遂げてきました。このため、「スペイン」という国家が成立するのでずっと近世になってからです。レコンキスタ終了時に最大の国はカスティーリャ王国でしたが、もともと、カスティーリャ王国は、イベリア半島北部の内陸のT字型の小国でした。バスク地王に近いため、バスク人の言葉の影響を強く残している、と言われてます。少ない母音を明確に発音する、という今の「スペイン語」(カスティーリャ語)はそれを引いているというわけです。たしかに、ポルトガル語、カタルーニャ語とはかなり異質の発音ですよね。

さて、このような理由のために、もともとイベリア半島には、相互に交流する地域の連携というよりは、相互に隔絶された小国が林立して、異なる言語、文化、気質、歴史を持つ国々があった、と言えます。これは今日まで続いております。そして、そこにイスラム支配が700年続いたエリアがあります。

これが、カスティーリャ王国とアラゴン王国とが統合されなかった理由だと思います。彼らにとっては抽象的な「スペイン」という概念はおそらく存在しなかったのです。ブリテン島も似たようなものですね。連合王国United Kingdonとはイングランドが押し付けた統治体制です。それぞれは、ウェールズ、スコットランド、アイルランドとして存続したかったのです。(そして今BrexitゆえにEU残留派スコットランドとは袂(たもと)を分ける可能性があります。)

そして現代の中央、南アメリカを見ると、小さな国が乱立しています。なぜこんなことになったのでしょうか。私の意見では、イベリア人気質です。大陸国として大きくまとまる、ということは苦手なのだと思います。あくまでも地方がそれぞれを主張するという気質なのでしょう。

次回に続きます。

スペインとは何か?私なりの意見をもっております。なお、私はまったくスペイン史の専門家ではありませんので、本日から何回かに分けてこのブログに綴る私の意見を鵜吞みにするのは危険かも知れないことを最初に申し上げます。

そもそもスペインとは何を指すのか?おそらく大方の人は、1492年にレコンキスタ終了の年に「スペイン」が成立したのでは?と思っているのではないでしょうか。まったく違います。1469年に、カスティーリャ王国王女イサベルとアラゴン王国王子のフェルナンドが結婚します。5年後、イサベルが女王となりカスティーリャ王国を継承します。その5年後フェルナンドが国王となり、アラゴン王国を継承します。つまり二人はIsabel de CastillaとFernando d'Aragonのままなのです。共同統治なんかしていないのです。カスティーリャ王国は従来の法律をそのまま使い、同じ女王を戴き、そのままカスティーリャ王国であり続けます。アラゴン王国も同じです。「スペイン」は成立していないのです。1496年に、ヴァティカンの教皇アレクサンドル6世がレコンキスタ完了を祝って、この二人と子供たちに、Reyes Catolicos、つまり「カトリックの王」という称号を与えます。catolicoとは何を意味するかですが、辞書に「全キリスト教会」というのがありました。私はそれに惹かれます。でも、ローマ・カトリックには教皇が存在します。教皇とReyes Catolicosの関係はどうなるのでしょうか。

ほぼすべての書物で、Reyes Catolicosの訳語として「カトリック両王」を使っていますが、これは十分正しいのでしょうか。私は間違いだと思います。そもそもこの称号は子供たちも対象にしていますので、両王の二人だけの称号ではありません。ちなみに、子供の一人キャサリン(英語読み)は、イングランド王室に嫁いでヘンリー8世の妃となります。男の子の嫡子が欲しかったヘンリーは離婚しようとしますが、Reyes Catolicosの一人である以上、ローマ教皇が認めるはずはありません。このあと、ヘンリーはカトリックを捨てて、新たにアングリカンチャーチをつくり、自分が支配します。つまりイングランドもプロテスタントの仲間入りをしました。

さて、歴史上、広く認められる、最初のスペイン国王は、フランス人です。ナポレオンの兄Joseph Bonaparteが、初めて「スペイン国王」という称号を使い、1808年に就任します。

多くの方は、カルロス1世が最初のスペイン王と認識しているでしょうが、カルロス1世の称号は、「カスティーリャ王国およびアラゴン王国の国王」です。「スペイン」ではありません。彼自身も「スペイン」の国王だという認識はなかったと思います。かれは、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世でもあります。つまり、ハプスブルク家という王族、貴族がいて、同じ一人の人物がイベリア半島の2国を統治し、同時に神聖ローマ帝国を統治した、ということなのです。国王とはある人物が思いついただけで勝手に称号を名乗ることはできません。周囲の国々に承認してもらい、国民から支持されて、はじめて国王となります。この事実をもってしても、「スペイン」という国は一筋縄ではいかない、かなり複雑な歴史、構造をもった国だということがお分かりいただけるはずです。

そもそも、カルロス1世は、カスティーリャ王国およびアラゴン王国の国王なのか、あるいは神聖ローマ帝国皇帝なのか、あるいはハプスブルク家のカルロスなのか。たとえば、西インドから金銀を積んだ船がセビーリャ港に帰還したとします。予め決めれられた取り分(たいてい2割)が「王室」に入りますが、それはカスティーリャ-アラゴンの王室のことなのか、それともハプスブルク家が適当にカスティーリャ-アラゴンと神聖ローマ帝国とに割り振ったのか・・・調べましたが私にはわかりませんでした。当時は宗教改革が始まったこともあって、ドイツ(神聖ローマ帝国)側、イベリア半島側などで戦争が絶えませんでした。つまりハプスブルク家はヨーロッパ中で戦争しまくっていましたが、その費用はどの国が負担したのでしょうか。もしかしたら、かなりは、「スペイン」側ではなく、神聖ローマ帝国側のハプスブルク家に流れたのではないでしょうか。

今日から数回にわたり、スペインとは何か、について書きます。次回に続きます。

ここまでの話を整理すると、海賊を示す言葉としては、英語だけで、pirate、buccaneer、privateer、 corsair、そしてfreebooterという、5つの語があるのですね。辞書にはあまり明確な差は出ていないかも知れません。ですが、時代背景などを反映して、以上で解説したように、それぞれを使い分けるとより正確になると思います。なお、最後のfreebooterという言葉は、実はオランダ語が語源の言葉です。オランダ語で「気ままな略奪者」を意味するvrijbuiterという言葉が英語に借用されました。vrij=freeでしょう。

そして、一方で、スペイン語では海賊の言葉としては、私はpiratoだけしか見つけられませんでした。大航海時代に、なぜか、スペインは一方的にカモにされ、フランス、イングランド、オランダの海賊たちに次々に襲われます。スペイン軍もそこそこの反撃をしたようですが、ほぼやられっぱなしだったと私は理解しております。その最たる例がフランシス・ドレイクが世界一周をしたとき、彼はアメリカ南北大陸西岸を北上し、メキシコ産の銀などを積んだ船を求めて、サンフランシスコまで行き、拿捕し、積んでいた銀を奪います。世界一周という大冒険をしながら、海賊行為も行い、マゼランとは異なり、彼は生きてイングランドに帰還します。つまり、生きて帰還した、世界初の地球一周です。その際には、当時の金額で60万ポンドの略奪した財宝、貿易による利益を計上しました。これは1年間の王室予算より多い額でした。現代の何十億円(またはそれ以上)に相当するのではないでしょうか。スペインは当然略奪に対する抗議をイングランドに行いました。エリザベス1世は取り合わずに、ドレイクの貢献に報いて、平民の出であるドレイクをナイトに叙しました。これはイングランド人の海賊をどれほど勇気づけたことでしょうか。そのときには、ドレイクが世界一周に使った船の上で式典を行い、スペイン大使も招待されていました。強烈な当てこすりです。当時はスペインは大帝国であり、イングランドは発展途上でした。大使から報告を受けたスペイン国王フェリペ2世は烈火のごとくに怒ったとされています。

なお、その7年後、ドレイクの船はスペインのカディスという港に入り、略奪をします。カディスは河口にある港で、その上流に、西インド経営の船が出入りすることを定められたセビーリャ港があります。これに怒った国王はアルマダ(無敵艦隊)を英仏海峡に派遣しますが、リスボンでイングランドのスパイにその動きを察知され、イングランドは余裕をもってアルマダを迎えて、撃破します。イングランドが後日喧伝したほどには、これは決定的な結果となったバトルではありませんでしたが、ほぼこのあたりを境にして、すでに始まっていたスペイン凋落は加速度を増し、イングランドは上昇の加速度を増してゆき、やがて18世紀後半の産業革命と呼ばれる、地上で初めて、新しい資本主義に突入してゆきます。

さらに、その8年後、ふたたび、イングランドとオランダの海軍連合がふたたびカディス港を襲撃します。多数の要人が拉致され、スペインは多額の身代金を支払いました。スペインという国は、いかに脇が甘いかよくわかるような気がします。

海賊をめぐる話はこれで終わりです。

前回の続きです。

例えば、「A国の軍艦が戦争相手国であるB国の船を臨検し、拿捕し、積荷を押収した」という行為があったとします。現代だとかなり明確な、軍事行動の一環です。ですが、これは現代の話。軍艦と商船の区別がなく、商船にも大砲が装備されていたとき、軍艦と商船を区別することはできませんでした。乗組員も軍人なのか、海賊なのかはあまり明確ではありません。というか、自由に使い分けていました。これと比較すべきは、9から11世紀にかけてのヴァイキング時代において、ヴァイキングたちは、戦士であり、貿易商人でもありました。現代でいえば、イランの革命防衛隊は、正規兵なのか、ゲリラなのか、テロリストなのか、秘密警察なのか、イスラム宣教師(宗教家)なのか、判然としませんよね。

イングランドのエリザベス女王はここに目を付けて、スペインの財宝を巻き上げて弱体化し、イングランドを太らせる、という作戦に出ます。このときに、出したのが海賊行為許可証です。スペインの船の財宝を強盗しても犯罪に問われない、と書いてあったそうです。その一部は王室に拠出しなければなりませんでしたが、まあ、ほぼ税金のようなものでしょう。でもこれはイングランドの海賊にとっては悪い取引ではありませんでした。アルマダの海戦のあとの16年間に、イングランドから毎年平均百数十隻の私掠船が新大陸に行き、毎年平均で二十数万ポンドのスペイン財貨を強奪したといわれています。これにスペインでのペストの流行が加わります。一方でスペインはヨーロッパのあらゆる方面で戦争をしかけて膨大な戦費を消費し続けます。スペインの弱体化は急速に進みました。

これに先立って、フランスでも国王が、スペイン船を強盗して良い、という許可証を出していたそうです。これらの行為を私掠(しりょう)と呼びます。これを行う船、行為を英語でprivateerと呼びます。これも広義の「海賊」のことです。privateerという言葉は1660年代から使われていたそうです。語源としては、「私人」privateを、volunterr, bouccaneerのパターンで変化させた、という説明がetymonlineにあります。

加えて、ぜひ想像力を駆使していただきたいところなのですが、スペイン船の運んでいた金銀財宝は、いったい誰のものなのか。仮にスペインが現地人から略奪したのだとすれば、強盗物品が別の強盗にとられた、というだけの話で、ごろつき同士の事柄ですよね。合法的に取引をしたのであればそれはスペインのものでしょう。いったん廃坑となったPotosi銀山が再開発され始めたのは1545年ですが、それが奴隷労働によった場合、スペインはその合法性を強く主張できるのか、という問題があります。当時の世界の考えでは奴隷労働は古代から行われてきたことですので、おそらくこの点では、当時、スペインが合法性を主張することに問題はなかった(あるいは少なかった)と私は考えますが、とは言え、スペインには取られたものの所有権を主張する根拠は、明確ではないと言うべきでしょう。

さて、dictionary.comのprivateerの例文でこんな文がありました:
One of her courtiers bet that Clark Gable as Rhett Butler would be her ideal, “a privateer, a romantic, and a fabulous cad.”
私の訳:彼女(M. Thatcher)の取巻きの一人が断言するところでは、レット・バトラー役のクラーク・ゲーブルこそが、彼女にとって、理想的な「海賊のようで、ロマンチックで、惚れ惚れするような野郎」なのであった。
検索すると、原文はGail Sheehyというジャーナリストが書いた2017年の記事だとわかります。

この例文からわかるように、英語ではprivateer、pirateというのは、「悪人」を指す言葉ではありません。多くの場合「力が強くて、優しくて、経済力のある、性的魅力にあふれた男」を指します。おそらくこれは多くの日本人の常識とは少し相いれない部分だと思いますが、実はアメリカ文化の底辺に現代でもこれは力強く生きている価値観です。アメリカでは、腕力の弱い、食の細い、いつまでも痩せた男の子は親の心配の種です。

さらに別の語もあります。地中海アフリカの北岸を英語でBarbary Coastと呼ぶことがあります。これはおそらく訛りで、「ベルベル人の海岸」というべきところをAnglocizeしたのでしょう。このエリアにいるベルベル人の海賊をcorsairと呼びます。主に16世紀以降のこの地での海賊行為を指します。単にイスラム教徒の海賊と説明してある辞書もありますが、これが正しい意味です。(辞書で見ると、他に、戦後のアメリカ空軍の飛行機のある機種を表す用語でもあるようです。) 追記 なお、etymonlineによるとこの語源は不明ながらおそらくbarbarianと同じで、ギリシャ語の barbarosがラテン語に入り、その後英語に入ってきた、という説です。

次回に続きます。

スペイン凋落の理由を調べると、どうしても避けて通れない事柄があります。その一つが、海賊です。今日からその話をします。16世紀初頭、スペインは西インドにいくつかの拠点を持ちます。それぞれが大きな拠点です。そこから、金品をスペインへと運びます。それが徐々にほかの国に知られるようになり、狙われます。最初に出てくるのがなんとフランスの海賊です。しかもどうもユグノー教徒Huguenotらしいです。

「海賊」という言葉は、欧米では実は一つではありません。英語の場合、最も代表的なものはpirateですが、それ以外にいくつかあります。buccaneerという言葉があります。意味は海賊ですが、裏にストーリーがあります。16世紀にイングランドのエリザベス1世は、対スペインの海賊行為を奨励しました。これは、海軍力が未整備であり、王室には、まだ強大な海軍力を整備する予算がなかった時代に、当時超大国であったスペインの足を引っ張るために、エリザベスは海賊行為を奨励しました。王室は私掠船許可証まで発行し、一部には財政援助までしました。死後、ジェームズ1世が即位しますが、カトリックの彼は私掠許可証すべてを無効にし、イングランド海軍の縮小まで行います。これで約5千人の船乗りが失業したそうです。彼らの多くはカリブ海に移動して、トルトゥーガ島Isla Tortugaという、キューバとエソパニョーラ島の間にある小さな島を拠点にします。ここで、島の野生化した家畜(ferals)の肉を燻製にし、目前を航行する船に売りました。当時は、航海途中の食料、水の入手はどこでも困難なため、どの海域であれ、飛ぶように売れたそうです。燻製肉とは今でいうビーフジャーキーに近いものでしょう。野生に戻った牛豚が原料ですので、ビーフジャーキーより遥かに劣る味だったのでしょうけど。トルトゥーガ島は水も豊富なところのようです。

このエリアはウィンドワード海峡Windward Passageといって、スペインと西インドを結ぶ重要なルートでした。この頃、海賊行為に従事する人々の間のフランス語で、肉を燻製にする網をboucanと呼び、それをする人をbouccanierと呼んだそうです。当時の認識では、トルトゥーガ島では、人々(=海賊)は屋外で焼き肉をして楽しんでいるように見えたそうです。それが英語のつづりではbuccaneerとなり、バーベキューではなく、海賊行為を指します。ただ、この語buccaneerは、カリブ海を本拠地にして活動した海賊を指します。ですので、ディズニー映画のPirates of Caribbeanは、より正しくはBuccaneer of Carribeanとすべきでしょう。やがてこの人々は、燻製肉を売るのではなく、本来のビジネスである海賊を始めます。目の前を、金銀財宝を積んだ船が通るわけですので、ある意味当然です。

次回に続きます。

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