まず、簡単に、イベリア半島およびスペインの人と風土について書きます。
イベリア半島には、ケルト人がいたことは明らかだそうです。そこにローマ人の統治が持ち込まれます。イベリア半島でもその程度には濃淡があったようで、今のカタルーニャ地方は明らかにローマ帝国の属州でしたが、イベリア半島の中央から北部では統治とは呼べない状況だったようです。その後、4,5世紀頃、ゲルマン系の民族が侵入してきます。最も強力だったのが西ゴート王国です。8世紀にはイベリア半島の北部を除く大半がイスラム教徒の支配するところとなります。
一方で、ポルトガル地方ですが、ここはローマの属州であったときの名前はLusitaniaです。ローマ以前にルシタニ族という名前の部族が紀元前に住んでいたためにつけれらた名前だそうです。ですが、ポルトガルという国名の由来は、スエビ(スウェイ)族が築いた城塞Portus Cale(ラテン語)に由来します。ルシタニ族はケルト系ともゲルマン系とも推測されている人々ですが、ほとんど詳細はわかっていないようです。この地方で最初に国王らしきものとして登場するのは、Portucale国の伯爵であったAlfonsoで、彼が初代のポルトガル国王を名乗りました。在位1139-1185年です。
イベリア半島の地勢を見るとわかりますが、フランスのように平野でできているわけではありません。山がちの地形です。川はいくつかあります。最も重要なのは、タホでしょうか。トレドを流れて、ポルトガルのリスボンにまで西に流れいきます。トレド観光にいくと、かならず停まって、トレド市内を一望できる撮影するポイントに行きますが、これがタホ川沿いにあります。なお、トレドは西ゴート王国の首都でした。なお、この川はポルトガルに入っても同じつづりですが、発音が少し違います。他のヨーロッパのように道路があまり発達させることのできない地形です。今でもスペインの鉄道は、ヨーロッパと軌道幅が異なります。道路軽視のマインドと同じ軸にあると思います。
このような地勢上の制約が大きいと、イベリア半島では民族、国家形成はどうなったのでしょうか。小国に分かれて、言葉、文化が異なるという発展を遂げてきました。このため、「スペイン」という国家が成立するのでずっと近世になってからです。レコンキスタ終了時に最大の国はカスティーリャ王国でしたが、もともと、カスティーリャ王国は、イベリア半島北部の内陸のT字型の小国でした。バスク地王に近いため、バスク人の言葉の影響を強く残している、と言われてます。少ない母音を明確に発音する、という今の「スペイン語」(カスティーリャ語)はそれを引いているというわけです。たしかに、ポルトガル語、カタルーニャ語とはかなり異質の発音ですよね。
さて、このような理由のために、もともとイベリア半島には、相互に交流する地域の連携というよりは、相互に隔絶された小国が林立して、異なる言語、文化、気質、歴史を持つ国々があった、と言えます。これは今日まで続いております。そして、そこにイスラム支配が700年続いたエリアがあります。
これが、カスティーリャ王国とアラゴン王国とが統合されなかった理由だと思います。彼らにとっては抽象的な「スペイン」という概念はおそらく存在しなかったのです。ブリテン島も似たようなものですね。連合王国United Kingdonとはイングランドが押し付けた統治体制です。それぞれは、ウェールズ、スコットランド、アイルランドとして存続したかったのです。(そして今BrexitゆえにEU残留派スコットランドとは袂(たもと)を分ける可能性があります。)
次回に続きます。
イベリア半島には、ケルト人がいたことは明らかだそうです。そこにローマ人の統治が持ち込まれます。イベリア半島でもその程度には濃淡があったようで、今のカタルーニャ地方は明らかにローマ帝国の属州でしたが、イベリア半島の中央から北部では統治とは呼べない状況だったようです。その後、4,5世紀頃、ゲルマン系の民族が侵入してきます。最も強力だったのが西ゴート王国です。8世紀にはイベリア半島の北部を除く大半がイスラム教徒の支配するところとなります。
一方で、ポルトガル地方ですが、ここはローマの属州であったときの名前はLusitaniaです。ローマ以前にルシタニ族という名前の部族が紀元前に住んでいたためにつけれらた名前だそうです。ですが、ポルトガルという国名の由来は、スエビ(スウェイ)族が築いた城塞Portus Cale(ラテン語)に由来します。ルシタニ族はケルト系ともゲルマン系とも推測されている人々ですが、ほとんど詳細はわかっていないようです。この地方で最初に国王らしきものとして登場するのは、Portucale国の伯爵であったAlfonsoで、彼が初代のポルトガル国王を名乗りました。在位1139-1185年です。
イベリア半島の地勢を見るとわかりますが、フランスのように平野でできているわけではありません。山がちの地形です。川はいくつかあります。最も重要なのは、タホでしょうか。トレドを流れて、ポルトガルのリスボンにまで西に流れいきます。トレド観光にいくと、かならず停まって、トレド市内を一望できる撮影するポイントに行きますが、これがタホ川沿いにあります。なお、トレドは西ゴート王国の首都でした。なお、この川はポルトガルに入っても同じつづりですが、発音が少し違います。他のヨーロッパのように道路があまり発達させることのできない地形です。今でもスペインの鉄道は、ヨーロッパと軌道幅が異なります。道路軽視のマインドと同じ軸にあると思います。
次に重要な川は、おそらくセビーリャという町のある川グアダルキビルGuadalquivirでしょうか。ここは標高7メートルにあり、約90KM流れて大西洋にそそぎ、その河口から少し東に行ったところにカディスCadizという港があります。
大航海時代の王朝は西インドとの交易をセビーリャ港に限定しました。色々な管理をするためには、同じ川沿いにあって大西洋に面するカディス港を使うよりは、やりやすいためです。ですが同時にいろいろな制約があり、国の発展を考えれば、賢明な選択とは言えません。これが、内陸のセビーリャが、貿易港として歴史に登場した理由です。この川はイベリア半島で内航が可能な唯一の河川と言われています。この川の名前は、ローマ人の付けた名前ではなく、アラビア語がベースになっていますので、あまりスペイン(カスティリャ)語っぽくありませんね。この川が外洋船舶の航行に使われただけで、スペインのほかの河川は、水上輸送に適していないと言われています。
このような地勢上の制約が大きいと、イベリア半島では民族、国家形成はどうなったのでしょうか。小国に分かれて、言葉、文化が異なるという発展を遂げてきました。このため、「スペイン」という国家が成立するのでずっと近世になってからです。レコンキスタ終了時に最大の国はカスティーリャ王国でしたが、もともと、カスティーリャ王国は、イベリア半島北部の内陸のT字型の小国でした。バスク地王に近いため、バスク人の言葉の影響を強く残している、と言われてます。少ない母音を明確に発音する、という今の「スペイン語」(カスティーリャ語)はそれを引いているというわけです。たしかに、ポルトガル語、カタルーニャ語とはかなり異質の発音ですよね。
さて、このような理由のために、もともとイベリア半島には、相互に交流する地域の連携というよりは、相互に隔絶された小国が林立して、異なる言語、文化、気質、歴史を持つ国々があった、と言えます。これは今日まで続いております。そして、そこにイスラム支配が700年続いたエリアがあります。
これが、カスティーリャ王国とアラゴン王国とが統合されなかった理由だと思います。彼らにとっては抽象的な「スペイン」という概念はおそらく存在しなかったのです。ブリテン島も似たようなものですね。連合王国United Kingdonとはイングランドが押し付けた統治体制です。それぞれは、ウェールズ、スコットランド、アイルランドとして存続したかったのです。(そして今BrexitゆえにEU残留派スコットランドとは袂(たもと)を分ける可能性があります。)
そして現代の中央、南アメリカを見ると、小さな国が乱立しています。なぜこんなことになったのでしょうか。私の意見では、イベリア人気質です。大陸国として大きくまとまる、ということは苦手なのだと思います。あくまでも地方がそれぞれを主張するという気質なのでしょう。
次回に続きます。