字幕なしの英語聴き取り応援団

英語の映画などの発話部分だけを編集、抽出して、繰り返し聞くという学習方法をおすすめするブログです。留学などの費用、時間をかけずに、実用的な英語力を涵養することができます。3か月以内に結果を出しましょう。既に210本以上の映画を紹介済み。

2019年07月

同名の小説を映画化したもの。アカデミー撮影賞を受賞らしいですが、特別美しい画面が多い、というほどではありません。ロバート・レッドフォード初監督作だそうです。波乱万丈のstory-tellingな展開とは程遠い、落ち着いた田舎の物語です。設定としては、長老派牧師(Presbyterian)、名前、ケチ、釣り好き…と言った、根っからのスコットランド人の家庭が描かれています。映画の最後で、名前の綴りを変えることのオチのようなものが話されます。難解な単語も少しありますが、量的には多くありません。

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映画『リバー・ランズ・スルー・イット』(原題A River Runs Through It) 

公開:1992年

ジャンル:いわゆるcome-of-age(成長もの)

時間:124 分

配役:
Brad Pitt as Norman Maclean

あらすじ:
二人の息子が成長する様子が描かれています。一人は大学教授の職を得て独立し、一人は路肩で死体で発見されます。

聞き所:
地元紙の新聞記者である息子の一人が、苗字の綴りを変えたことを父親が嘆くところ。Macleanという名前は、Highland出身の、つまりコテコテのスコットランド人であることを示すようです。その息子がMacLeanにした、というもの。これでは、Lowland出身(つまり、軟弱なLowlander)と間違えられるな、という、強いプライドがにじみ出ています。

私の評価:

エンタメ度   つまらない☆☆☆面白い
文化理解要求度 高い   ★☆☆ 低い  
熟語、俗語量  多い   ★★☆少ない 
早口度     早い   ★★★ 普通
ビジネス用例  少ない  ☆☆☆ 多い 
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合計           6★(満点15★)

方言:なし。

コメント:
Presbyterianismは1567年にスコットランド国教と定められました。カルヴァン派の一つです。

単語などの解説は明日に。

先日このブログ用にと思い、ある映画をテレビで見ました。scriptをチェックしたら、"River Runs Through It"。あれ?Aは付かない?と焦りました。よーく見たら、検索用に倒置されていて、"River Runs Through It, A"となっていました。今日は英語の「冠詞」について。英語の冠詞のルールは簡単ですが、日本人は使いこなすのが難しいポイントの一つでもあります。細かい話をするとキリがありません。完璧さは必要ありません。80点か90点を取れば十分だと私は思います。

高校の文法で冠詞を簡単に復習しましょう。おそらく基礎4までであなたに新しい情報は何もないと思います。

基礎1:英語の名詞には、普通名詞、集合名詞、物質名詞、抽象名詞、固有名詞がある。
基礎2:最初の2つは、数が伴う(=数えられる)
    集合名詞の例 a family
基礎3:後の3つは数が伴わない(=数えられない)
    物質名詞の例 Paper is made from tree.
    抽象名詞の例 Happiness is in your mind.
基礎4:補語には冠詞を付けない
    例 The board members appointed him president.  (a presidentではない)

基礎5:
数を意識する場合にはaを付ける、ということです。別の言い方をすると、「他にもあるけどね」という意識があるときは、aを付ける、ということです。冒頭の例では、riverというものはあちこちにあるものなので、当然aを付けることになります。これが本日のポイントです。

念のため他の例文を。
The horse is a useful animal.  これはtheを使う「代表単数」という用例です。「馬というものは」という意味です。抽象化された馬が話題になっています。
A horse is a useful animal.  ここでは1頭について述べられていますが、1頭で全体を代表させています。頭の中には1頭の馬がいるはずですが、他にも馬はいるけどね、という感覚はここにはありません。つまり単数で代表させる場合がありうる、ということも頭の片隅に。
Horses are useful animals. これだと頭の中には、複数の、おそらくたくさんの馬がイメージされているはずです。これがもっともふつうの感覚でしょう。ちなみに、Horses are a useful animal.という表現は文法的ではありません。(が、意味は十分通じます。)
これだと抽象性が上から下の例文で、さがっている、と考えられます。

Horse is a useful animal.という文は非文法的だと言われます。上の3つのいずれかの形をとるのが普通です。

良い復習になりましたでしょうか。

英語であれそれ以外の言語であれ、欧米の文化において大きな役割を果たしている、キリスト教、の関係の用語を整理したいと思います。何気なく使っている言葉は、時として不正確である場合があるかも知れませんね。一度、原点に立ち返ることも必要かも知れません。

なお、私は宗教学者ではまったくありません。ここには誤解、無知、無理解があるかも知れません。また特定の宗教、宗派を薦めたり、貶めたりするつもりはまったくありません。あくまでも、英語におけるword power涵養、あるいは単なる知的な楽しみという観点から書くに過ぎません。そのつもりでお付き合いくださいませ。

最近テレビなどで見かけるフランスの宗教政策(教育における政教分離)を「ライシテ」と呼ぶとのことです。フランス語でlaïcitéと綴るようです。一見して、英語のlaic、laityと関係ありそうに見えます。ですが、英語ではsecularismという言葉が訳語になります。secular educationというのは「教育に宗教を持ち込まないという教育における原則」のことです。英語のlaicは平信徒であることを指す言葉です。おそらくlayman、素人を指す言葉と関係があるように見えますが、ある辞書には別の説明がありました。しかし、私としてはその説は疑うつもりです。かなりの言語がフランス語から英語に入っていますが、このあたりの用語もフランス語から入ったものが多いという、私の直感に基づきます。laicの反対語はclericです。何をもって反対語とするかは人により判断が分かれる場合もありますので、私の見解ということでご理解ください。さて、laicを名詞にするとlaicityとなり、ほぼフランス語のlaïcitéと外見上は同じになります。しかし、どの辞書にも「政教分離」という意味は書かれていませんでした。

なお、フランス語を飛ばして、イタリア語で見ると、laicoという言葉があります。これは、宗教の関与すべき事柄とそうではない事柄を分けることを指す言葉です。つまりフランス語のlaïcitéと同じですね。フランス語の語源辞典を見ると、laïcitéの語源は古代ギリシャ語laikosだそうです。ラテン語に一度入ったのかについては言及がありませんでした。おそらくラテン語に一度入ったので、フランス語、イタリア語ともに似ているのではないでしょうか。

ところで、この用語clericに聞き覚えのある男性もいると思います。クレリックシャツという名前で。現代においては、これは襟、袖が白無地で、身衣(みごろも)が白無地以外の、色無地あるいは柄もの、のシャツを指すと思います。これは英語でも正しいのかも知れませんが、Wikipediaによると、clerical collar with a tab collorという、映画などで見かける、牧師などが着る黒無地の立襟のシャツを指すようです。あるいは両方ともに、cleric shirtというのかも知れません。私にはこれ以上の知識はありません。いずれにしても、知っている知識を総動員してword powerを増やす、という私のは私の勧めるやり方です。なんでも動員しましょう。

キリスト教信者のことを英語でbelieverと言います。そのままですね。フランス語だとcroyant、イタリア語はcredenteです。英語ではcredenceというのは「信仰」という意味はない、あるいはほぼないと思います。credentialsとは、就職のときに、求められる、指導教授、元の上司の紹介状のことを言います。

atheismという英語があります。/éiθiìzm/と発音します。意味は「無神論」です。人を指すのであれば、athesitになります。これは語義としては、かなり積極的、攻撃的な無神論者を指すそうです。語幹がthesisという、テーゼを指す言葉からできています。ここでは「信仰」を意味します。が、この言葉atheismは、「神を否定する考え」という意味です。もちろん、それを主張することは可能ですが、相手の信仰の程度によっては少しショッキングな、挑戦的な言葉遣いと解釈される可能性があります。我々日本人はこれをあまり使わない方が良いと言われています。

agnostismという英語の言葉があります。意味は、「不可知論」とされています。神、天地創造の話には、少し相互に矛盾した部分もあると言われていますし、今毎日のようにビッグバン、太陽系生成の歴史に関する説明が行われていますが、それと過去にキリスト教などの一神教が行ってきたと言われている説明はまったく相容れることがありません。したがって、我々にはこれ以上知ることはできないのだ、という考えのことをagnostismと言います。

トマス・ヘンリー・ハクスリーThomas Henry Huxley という名前が、教科書のチャールズ・ダーウィンの脇にありました。覚えている方も多いでしょう。彼はダーウィンの『種の起源』が1859年に発刊されたときに、ダーウィン擁護派の先頭に立つことを選びました。彼自身は医者でしたが、多才の人でした。自分のことをDarwin's bulldogと呼びました。Huxleyが造語した言葉がagnostismなのです。ギリシャ語のagnostos、知ることができない、という言葉からの造語とのことです。1870年初出とのことですので、刊行から11年後なのですね。議論の深化とともに必要性が出てきたので造語した、ということでしょうか。面白いのは彼はDarwin's bulldogではあっても、進化論に対しては、Darwinとは別の考えを持っていたそうです。ですが、敢えてDarwin's bulldogとなることを選んだわけです。その理由は、当時のキリスト教信者が持っていた世界観、生物観からDarwinを守ることが学者としての良心だと考えたからではないでしょうか。

余談ながら、Galileo Galileiがヴァティカンから許されたのは、21世紀になってからです。ヴァティカンから許されることがいかに大変なことかの一例です:

日本語Wikipdeiaから引用:
1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである。

ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている。(引用終わり)

なお、イングランドがグレゴリオ暦を採用したのは1752年です。ヨーロッパの中では遅い方です。ヴァティカンが採用したのが1582年です。ただ天文学者の多くは、グレゴリオ暦がより正確であることを知っていましたので、天文台、研究者の間ではグレゴリオ暦、つまり今の太陽暦が使われていたそうです。グレゴリオ暦とガリレオのゆるしの後先が面白いですね。

最後に、英語ではないのですが、面白い単語を紹介します。Judaizanteというスペイン語(カスティーリャ語)です。読みは、フダイサンテです。これは英語で言えば、Judaize+ingですが、独特の意味があります。意味は、「隠れユダヤ教徒」です。普通の辞書には出ていません。スペインでカスティーリャ王国でレコンキスタ進行中に、ユダヤ教徒が生活のためなどでキリスト教に改宗したことが数多くありますが、実際にはユダヤ教徒のままであったと疑われた人も数多くいたそうです。そのような、「キリスト教に改宗した、疑われた元ユダヤ教徒」を指す言葉です。何事につけいい加減で無責任、アスタマニアーナのスペイン人ですが、Judaizante発見のためには、非常に熱心にやりました。レコンキスタ進行中に、非常に凄惨な、拷問、処刑が長期間にわたり行われた、いわばブラックなスペイン史の一面です。信仰というよろは妬みでしょうね。将軍フランシスコ・フランコの独裁下で行われた事柄も暗黒史の一面です。最近カタルーニャ州(バルセロナのある州)の独立で、かなりスペイン王家、国民のブラックっぽいところが見えたような気がします。かつてのソ連邦と似ているな、と思いました。バスク人に対する差別も出口が見えませんね。

続きです。

⑤造船技術の停滞
ガマ、コロンブスなどのための帆船をつくることは、地中海航行より遥かに高度な造船技術、操作技術を要求されましたが、ポルトガル、スペインはそれを早々にクリアーします。これを対航性(seaworthiness)と言います。航海の成功、特にマゼランの地球一周が明確に証明しています。ですが、船はより大型化、高速化、軍艦・商船の別々の進化が進み始めます。この技術革新からスペインは徐々に取り残され始めます。そして必要とする木材資源が枯渇し始めます。その後バルト海諸国からの木材輸入でしのぎますが、それすらも途絶えるようになります。

これと良い対比をなすのが、ヴェネツィアです。木材の供給源として、後背地のドロミーティ山地を確保し、木材資源を確保します。一部は、船建造に、一部は、地下の杭として使われました。ヴェネツィアは共和国でしたので、英明な王に導かれて、ということはまったくありません。すべて市民の議論から決定されました。

⑥金づるの先細り
イングランドの私掠船がカリブ海からメキシコ湾にかけて活躍し始めます。スペインが失った最大量の銀は、一度は、ポトシ銀山からパナマの西の太平洋を輸送して陸路でメキシコ湾側に運ぶ途中の太平洋で私掠船に強奪されます。量はわすれましたが、銀だけでおそらく数十トンだったはず。イングランドの海賊船がそこいらじゅうを走り回っているときに、スペインは、ポトシ銀山から海路で現在のパナマまで運び、陸路で横断し、ふたたび船で本国に輸送していました。なお、当時は、どの国でも税と海賊行為の線引きは意味がなかったそうです。国王にとっては同じものだったそうです。

⑦のんきな国民性その1(国民性)
国民性として、イベリア半島人はあまり働かない印象を私は持っています。多くの国では1割位は意欲の高い人がいるように感じますが、スペインではそのようなライフスタイルはあまりみかけないような気がします。一生懸命働くよりは、おいしい料理を食べ、ワインを飲み、シエスタを・・・というマインドの人が多いです。つまりおじいさんの代の生活スタイルをその子が引き継ぎ、さらにその子(孫)もアスタ・マニアーナの精神で暮らす、これを数世紀にわたり繰り返していると、国内ではみな平等につましい生活を送ることはできるのでしょうが、北ヨーロッパとの差はさらに拡大してゆきます。

⑧のんきな国民性その2(探求心)
西ヨーロッパの国の中で、南側のイタリアでも、有名な学者、研究者は多数います。ヴォルタ、トリチェリ、ガリレオ、マルコーニなどなど。でもスペインとなると中々思い浮かびません。おそらくあまりいないのです。これだと近代科学はなかなか浸透しなかったのではないでしょうか。地理学、元素名、数学、天文学などでスペイン人の有名な学者はあまりいなさそうです。

⑨のんきな国民性その3(外国人依存)
ハードワークを外国人に任せる気風がいまでも残っているような気がしますし、あまり高度な人材がいないような気がします。人財不足という印象があります。中世からスペインではそうだったのです。ジェノヴァ人、ヴェネツィア人、ユダヤ人、イスラム教徒が大都市で、高度なビジネスをしていました。もしかするとローマ人もそうだったのかも知れません。もしそうだとすると、この気風は大航海時代前後からの話ではなく、古代ローマの時代から、ということになります。早々に変わることはなさそうです。いずれにせよ、新大陸からの「あがり」がなくなると外国人は出てゆきます。

さて、直近のスペイン。北部にあるビスケー湾。ここに面した町でビスカーヤという地域があります。ここれはかつてカスティーリャ国の輸出港でした。当然その後にはすたれましたが、19世紀半ばに鉄の鉱脈が発見されて、イングランドなどからの投資がなされ、重工業が発展し、スペインで一番豊かな地方になりました。そしてその後需要が減退し、町は衰退して行きました。(ここは正確にはスペイン人(カスティーリャ王国人)のではなく、バスク人の多く住む地帯です。)この発展のすべてが人任せです。スペイン最大の銀行である、サンタンデール銀行はマドリードにあるのではなく、すぐ近くのサンタンデールという町にあります。

ここではスペインとポルトガルをはっきりとは区別していません。その必要もあまりないと思います。ポルトガルの方が貧しいようですが、でも独立心の強い人々のようです。何度かスペインから独立して今日があります。両方ともレンティエ国家だと私は思います。

これらの要素が複雑に絡み合って、スペインは取り残されたのではないでしょうか。もしこれが植民地経営、貿易を基盤とする仕組みであれば、全然別のシナリオがあったはずだと思います。

皆様の納得をいただける説はありましたでしょうか。

加筆してあります。

私はあまり歴史に強くはありませんが、関心を持つ歴史のポイントがいくつかあります。たとえば、その一つは、「ノルマン・コンクェスト」の前後です。それを知ると、英語史の大きな一部を知ることになります。別の例が、「大航海時代」です。特に、なぜスペイン、ポルトガルは凋落し、イングランドが超大国としての坂を駆け上がって行ったのか、です。今日は、このスペイン凋落の理由を探りたく存じます。

私はこのことに長年に渡り関心を持ってきましたが、結論を先に言うと、歴史学などの学者の間に一定の了解がまるでありません。本当に諸説あり入り乱れています。それらを個別に概観して行きましょう。

その前に、逆に、なぜ彼らは最初うまく行ったのかを見たいと思います。そのような設問と説明(回答)に出会ったことはありません。以下は私の個人的見解に過ぎません。カナリア諸島というスペイン領の島々が、モロッコ西岸沖の大西洋にあります。ここは最初はモーロ人の住む島でしたが、スペインが占領し、支配します。サッカー選手クリスティアーノ・ロナウドが生まれたのはカナリア諸島ですね。さて、やがてポルトガルとの間にカナリア諸島の領有権問題が出てきますが、1479年のアルカソバス条約によりスペイン帰属が確立します。これにより、スペインの船は本国を船出してからまず、カナリア諸島により、その後で、それぞれの目的地に向かう、ということが可能になります。戦略上非常に有利になりました。スペインはここでサトウキビ栽培を始め、労働力としてアフリカ人奴隷を使い始めます。奴隷ではない労働者もいたようです。最大の製糖工場はドイツ人の所有でした。ここでできた砂糖はヨーロッパに輸出されます。つまり、西インド、東インドに進出する前の予備実験をスペインはカナリア諸島で行なっていたというわけです。これはうまく行きました。モロッコ沖の小さな島々であったことが大きな理由でしょう。スペインはこの、いわばカナリアス・モデルを新世界に持っていくつもりだったと思います。ところが、次々に現れたコンキスタドールは一攫千金を夢見た人たちでしたので、そんなまどろっこしいことをせずに、今ある貴金属を強奪して、一部をあるいは相当な部分を自分たちのポケットに入れて、残りをスペイン国王に進呈します。地元のヤクザが、吸い上げたものを、本部のヤクザに送金するようなものです。そして次にリソースを貴金属精錬に注ぎ込んで、金銀を採集します。私はスペインが新大陸に持ったものは本当に「植民地」colonyだったのか自問自答します。違うのではないでしょうか。コンキスタドールは別にcolonyという、まどろっこしいものを得るために、エル・ドラド(黄金郷)を切り開いたのではないと思います。これに対して、オランダがモルッカ諸島を傘下に治めたのは、交易を独占するためでした。イングランドも同様にインドの産する、極上の綿布と紅茶、中国の陶器などの工芸品を貿易するためでした。つまり北ヨーロッパ諸国では植民地経営が利益の基盤でしたが、スペインにとっては略奪が利益の基盤でした。

最初から、余計な話ですが、スペインが中南米で略奪し、延べ棒に溶かして本国に持ち帰った貴金属を、時々イングランドの海賊が略奪します。スペインは本当に被害者なのでしょうか。強盗が別の強盗にあっただけの話で、最初の強盗は被害を主張する法的根拠はない、と私は思います。

さて、凋落の理由は私が知る限り10個近くあります。概略しましょう。

①フェリペ二世の4回のbancarotta。これは私の説です。最近このブログで扱いましたので、今日は省略します。

②貴金属への過度の依存、オランダからの税収への依存
中南米で略奪、採取される銀、金はスペイン王室にもたらされます。いわば不労所得であり、これには必要な才能はないでしょう。ただ、たしか50人程度の騎士の一団が何万人もが暮らす都市を制圧できたという幸運はありました。しかし、海賊にとられるリスクは常にありましたし、実際にイングランドの海賊(私掠船)はスペイン最大の脅威だったと思います。これと言った産業のないスペインでは、国際金融市場であったオランダの繁栄からもたらされる税金は大いなる助けでしたが、やがてオランダはスペインから独立します。オランダスペイン間で戦争が始まり、開始はスペインがピークにあったフェリペ2世の時代でしたが、このあと80年続く、いわゆる80年戦争の後、1648年のヴェストファーレン条約でオランダは正式に独立します。海賊とオランダ独立のためにスペインは弱体化しました。

③1599年のペスト
スペインの人口動向を見ると16世紀末に3年間にわたりペストが蔓延し、多数の人が死んだと言われています。他の国では早々に人口が回復したのですが、スペインの場合は、100万人規模で減少したものの、容易には回復しませんでした。他の国々では、もっと早くにもっと深刻なダメージがありましたが、イタリアも含めて非確定早期に回復しましたが、スペインではそうは行きませんでした。加えて、植民地に人が流出して行ったわけですので、本国には大規模な人口減少という相当なダメージがあったと言われています。

④人的資源
レコンキスタは1492年に終了しますが、これ自体は2世紀以上を要した戦争状態でした。その間にカスティーリャ王国は領土を広げて行き、回復された領土には、イスラム教徒、ユダヤ教徒が多数いましたが、彼らには色々な専門家がいました。

モーロ人統治時代には、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒は共存が許されていました。徐々にモーロ人統治地域が南に下がっていく間に、カスティーリャ王国が統治するようになった地域では、最初は共存でした。同時に、イスラム教徒、ユダヤ教徒の多くは求めに応じて、キリスト教に改宗しました。カスティーリャ語でMorisco(moroを含んでいます。改宗イスラム教徒のことです。)、Converso(英語のconverted。改宗ユダヤ人)と呼ばれました。彼らの一部は国家運営の専門家で、letradoレトラードというカスティーリャ語で呼ばれました。普通の意味は、「学のある」ということですが、歴史においての意味は、弁護士などの法曹専門家の官僚を指します。letradoの多くは、レコンキスタ進行中にキリスト教に改宗したユダヤ人の子孫(=converso)で、高級官僚となった人びとを指す言葉です。つまり、王室の運営などで才能を発揮したユダヤ人の改宗者を指します。多くが、イタリアなどの大学でローマ法などを修めた法律の専門家でした。この人たちなしにはスペイン王室の運営は成り立ちませんでした。当時は、行政、立法、司法はすべて絶対王政下の国王に集中していました。私が知る限りの英語のオンライン辞書を探しましたが掲載されていません。

この人たちが本当にキリスト教徒かどうかを審査したのが、有名な、異端審問(ラテン語inquisitio)と呼ばれる制度です。これは極めて悪名高い裁判で、匿名扱いの密告があれば訴追され、すべての容疑者に拷問が加えらることになっていたと言われています。ただ、その一方で、実際にはそれほどひどくはなかったという専門家の見解もあるようです。スペイン、スペイン史の闇の部分を、イングランド、オランダが数世紀にわたり徹底的に糾弾したことは有名です。inquisitioとは、その流れの誤解だという意見もあります。ただ、和訳されている専門家による精密な資料もあります。きわめて具体的に書かれていて、読んでいるだけで気分が悪くなってきます。私としては、スペインの国力低下の要因としてそれを見るだけです。いずれにせよ、それまではイスラム支配下のイベリア半島で平和に共存してきた、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒がレコンキスタの進行にともない、分裂し、敵対し、弾圧し、国家運営が傾いたこと、そしてそのような異端審問がヨーロッパ各地のキリスト教国で行われたこと、そしてそれが中世から近代までの数世紀にわたり存在したことはキリスト教の性格が表れていると思います。

さて、レコンキスタ完了後、セファラディムと呼ばれた、在イベリア半島のユダヤ教徒全員は1492年に国外追放となり、財産はフェルナンド国王の金庫に没収されました。Conversoは、一応はキリスト教に改宗したもののはずでしたが、常に疑惑の対象とされていました。時として弾圧されたり、追放されました。これ以外にも、グラナダなどの大都市では、ジェノヴァ人などの外国人が多数いました。フェルナンド国王の財務長官であったルイス・デ・サンタンヘルはコンベルソでした。フェリペ4世につかえた宰相ガスパール・デ・グスマンは貴族の地位を買ったコンベルソの子孫でした。グラナダのキリスト教会大司教もコンベルソでした。社会のあらゆるところに非スペイン系の血を引く、有能な人々がいました。2世紀の間に積み重ねた人的資源を、カトリック教会の意向で、一気に追放します。これでは国家運営が危うくなるのは当然でしょう。しかももともとスペイン人にはない、才能、能力を持った人々だったのですから、追放された跡を引き継ぐスペイン人はいなかったと思います。当然国は傾きました。

続きは明日に。

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